二宮尊徳をたまに思い返すべき。経営コラムニストの非論理性
Yahooニュースの公式コメンテーターによるコメント。それの揚げ足をとる記事です。今回、揚げ足をとるのはこちらのコメント。ニュース記事「障害者5000人が解雇や退職 事業所報酬下げで329カ所閉鎖」への、経営コラムニストによるコメントです。
このコメントは非論理的な内容になっています。というのも、自信も根拠もない、ただの思いの吐露になっているのですから。詳しく見ていきましょう。
1.「たまに思い返すべき」 自身の無さと開き直り
まずは自身の無さについて。主張は自信をもってなされなくてはなりません。自信がなくては信用が生まれにくく、信用の無い主張に聞き手は説得されませんから。
例えば「あの人が犯人です!」と明白に言われるのと、「あ……あの人が犯人かもしれません……」と小声で言われるのでは、説得力に差が出ます。明白に言われれば「確かに、あの人が犯人なのだろう」と信用できるのに対して、小声で「かもしれません……」などと曖昧な表現をされると、「では違うかもしれないのか」と疑問を持たざるえない。
相手を説得する主張には、自信が必要なのです。
さて、本コメントは文頭に
とあります。どうして「たまに思い返すべき」なのでしょう。自信があるのなら、もったいぶらずに「思い返すべき」と明言すればいいのに。明言できないのは、所詮は「思い返すべきでは無いかもしれない」という不安の表れでしょう。思い返すことを推奨してはいますが、その推奨は自信を持って言えるものではなく、実は「もしかしたら思い返すほどのことでもないかもしれない」と、未練がましく言える程度の自信なのです。自分が間違っている場合の逃げ道を作っている。このような自分の主張が間違っている可能性を自ら示唆する物言いに、誰が説得などされましょう。
さらには
の「(私見)」という部分。これは二重の意味で良くありません。自信も感じられないし、自信が無いことを開き直っているのも良くない。語尾を「思う」と断定できずにいるので、わざわざ「(私見)」と明言しなくても私見であることは推測できます。それなのに自らすすんで「(私見)」と書いている。これでは自虐。自分の主張に説得力がないことを自覚し、しかも諦めているのです。
加えて気なるのは、知識不足が見え隠れしていること。というのも、この「(私見)」という表現の開き直りは、筆者の主張に対する知識不足と受け取れるのです。「主張に自信が必要なことをわかっていない」という知識不足。或いは「(私見)と書くと、自信の無さが露呈することをわかっていない」という知識不足です。「自信の無さ」と「開き直り」に「知識不足」を加えると、この「(私見)」は、三重の意味で良くありません。
2.「意外とうまくやっていく」 根拠の役目を果たしていない
次に、根拠がその役目を果たしていないことについて。
レトリック学者の香西秀信氏は、自身の著書で次のように言います。
例えば、指紋の特性(万人不動、終生不変)に関して前提知識の無い者に
と言ったところで納得はしません。根拠と判断が繋がりませんから。「あの人の指紋と現場に残っていた指紋が一致している」と、どうして「あの人が犯人だよ」と言えるのか、指紋の特性に無知だとわからないのです。つまりこの例では、根拠が判断よりも承認されやすいものになっていない。そこで、根拠をより承認されやすいものにします。根拠に説明を加えてこう書きます。
こうして根拠をより承認されやすくすれば、判断「犯人はあの人だよ」は承認されやすくなり、根拠は根拠たる役目を果たしえるでしょう。
さて、本コラムの結論は、「優しくなるためには強くならなければならないのだ」となっています。この判断を導くために、筆者はどのような根拠を提示しているでしょうか。寛容的に解釈すれば、おそらく次のように構成し直すことが出来ます。
つまり
と。
この根拠は、判断を導くに足る根拠になっているでしょうか。根拠たる役目を果たしえているでしょうか。疑わしいと言わざるをえませません。判断以上に根拠が承認されやすいとは言えないので。
「優しくなるためには強くならなければならない」と言われて、そのまま納得できるものではありません。優しさは「柔和」や「軟弱」を連想させる為、強さは真逆の性格。故に「優しくなるためには強くならなければならない」と言われると「どうしてだろう」と疑問に思い、根拠が欲しくなります。しかし、そこで与えられた根拠が「他業界から参入した事業主は経営を理解しているので、意外とうまくやっていくから」では納得できません。果たして「他業界から参入した事業主は経営を理解しているので、意外とうまくやっていく」のでしょうか。どうして「他業界から参入した事業主は経営を理解しているので、意外とうまくやっていく」のでしょうか。業界が違えば適切な経営手法も違ってくるでしょうから、単純に考えればうまくやっていけるものでも無いように思えるのですが……。
おそらく、「単純に考えればうまくやっていけるものではない」ことは筆者もわかっているのでしょう。だから「意外と」と書かれている。「意外と」は、展開が思いがけない方向へ進むのを示唆しますから。「うまくやっていく」のは例外であって、大抵は「うまくいかない」のを筆者は認識済みです。けれど筆者の説明はここで止まっており、「大抵うまくいかないのに、どうして今回だけうまくいくと思うのか」の説明がありません。「何が『意外と』なんですか?」と聞きたくなる。
ここで提示された根拠は、判断を導くに足るものではない。つまり、根拠が根拠たる役目を果たしていないのです。
3.まとめ
このように、「たまに」や「(私見)」という逃げ道となる表現によって自身の無さが現れている。判断「優しくなるためには強くなければならない」を承認するだけの根拠が示されておらず、説得力に欠く。以上の理由から、このコラムには論理性が欠けているのです。
本当であれば、文頭も突っ込みたいところです。格言まがいの言葉から書き出しており、文章読本の「書き出しに気を配れ」を実践しているかのような安易さが漂っている。しかもその格言まがいを「思い返すべき」と書くあたりが「当然、皆んな知っているだろうけど」と誇示めいている。けれど、それらの揚げ足取りはまた今度にしましょう。
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