運動機能のピークが6歳という不安。具体的エピソードの役割について
榊原さん方に起こったエピソード。色素性乾皮症の進行
Yahooニュースで、色素性乾皮症という病気の記事を読みました。色素性乾皮症は、「2万人に1人」という難病。愛知県に住む榊原妙さんは、息子の匠さん(現在16歳)が2歳の時に、匠さんが色素性乾皮症であることを医者から告げられました。この病気に罹患すると運動機能のピークは6歳頃で、そこからはできる事が減っていくのだという。当時、小学4年の匠さんに、病気の症状・難聴が始まったときのエピソードが心をつかみます。
私にも小学校低学年の子どもがおり、この息子の神経症状や運動機能が6歳頃をピークに低下すると言われたら、不安に押しつぶされそうになるでしょう。子どもと遊ぶ明るく楽しい未来を思い描いていたのに、それが叶わないと医者から知らされたときの不安は計り知れないもの。
そして実際に、症状の進行が顕著に現れ始めます。車で音楽のボリュームを上げた話。おそらくお母さんは、少しでも匠さんの機能を健全のレベルに留めたいと思い、習い事に通わせていたのではないでしょうか。私だったらそう考えます。
で、おそらく、妙さんもずっと子どもの病気のことで頭に不安があったわけではなかったと思います。日々の忙しくも楽しい子どもとの毎日の中で、「もしかしたら症状はそれほど悪くないのではないか」「もしかしたらウチの子に限っては治っているのではないか」と楽観して考えていた(考えようとしていた)のではないでしょうか。楽観から、病気の不安が頭から離れたときもあったのではないか。けれどそんな希望を、現実が打ち砕きます。いつも歌うはずの子どもが歌わない。音楽を流せば口ずさむはずの歌を、子どもが歌わない。突然に眼の前に迫ってきた不安を払うため、せめてもとボリュームを上げる。そこで歌い出した子どもに幾ばくか安堵し、それでも症状の進行という不安を突きつけられる。習い事に子どもを届けた後、涙腺が耐えきれずに涙がこぼれる。不安が涙を誘うし、涙が余計に不安を駆り立てる。将来を悲観して気分が沈み、憂患な心が重い。そんな重く真っ黒な雲を、子どもの言葉が晴れ渡らせる。「ママ、聞こえてるよ」と。
おそらく妙さんはこの時、子どもと自分が別の存在であることを悟ったのではないでしょうか。いくら妙さんが悲しんでも、子どもは別の感情を有している。どれだけ母親が子どもの将来を悲観しても、それは勝手な他人の想像でしかない。子どもは子どもの世界を生きている。母親と同じ悲しみを、子どもがそのまま持っているわけではなく、子どもは子どもで爛漫としている。悲しみが子どもに伝わるような行いはやめよう。子どもは自身の人生を生きているのであって、母親が悲しみを押し付けるわけにはいかない、と。
無味乾燥なデータ。我々は論理的になりきれない
レトリック学者の香西秀信氏は自身の著書の中で、どんな人間でも幽霊や怪談の話を聞けば不安になることを説明し、その後に次のように述べています。
夜中に外を出歩くことに少しでも気の重さを感じたり、飛行機に乗る際に「落ちはしないか」とちょっとでも頭をかすめたり。科学技術によって支えられた、合理化された社会の中で生活していても、私たちは心の中にある非合理的なものへの怖れを消し去ることが出来ません。私たち人間は、いくら論理的であることが大事だと思っていても、完全に合理的になりきれないのです。
この、論理的になりきれない性格が、文章において私たちに、具体例を必要とさせます。
物事を相手に伝えるときは、具体的なエピソードよりも無味乾燥なデータの方が、情報を正確に伝えられます。
難病の状況を読者に伝える際も「子どもが歌を歌わない」とか「運動会で60メートルを完走した」などとエピソードを書くよりも、「色素性乾皮症である」とか「日本では2万2千人に1人の割合で発症する病気」とか「皮膚がんが通常の数千倍」とデータのみ伝えれば、正確に伝わるでしょう。個々の具体的なエピソードは、病気の一面でしかないのですから。
「いつもなら歌うはずの歌を歌わない」というのは、色素性乾皮症の患者であれば誰にでも起こる事実ではありません。この事実は、榊原さんの家庭に起こった事実。このエピソードをもってして色素性乾皮症であることを伝えたとは言えないでしょう。「運動会で60メートルを完走した」というのも、色素性乾皮症を正確に伝えている情報ではありません。このエピソードも伝えているのは、榊原さんの家庭に起こった色素性乾皮症の一側面です。色素性乾皮症の患者すべてに運動会の出来事が起こるわけではありませんし、色素性乾皮症以外の病気を患った患者にも起こり得る話です。
では私たちは、文章において正確さを期すために、データだけを伝えればいいのでしょうか。具体的なエピソードを廃して、正確な情報だけを伝えればいいのでしょうか。そうではありません。データだけでは無味乾燥すぎて、今度は相手の心に届かないのです。
色素性乾皮症をネットで調べると、ウィキペディアの一番初めには以下のように書かれています。
この文章は色素性乾皮症を伝えるのに正確な情報ですが、これでは私たちに心に刺さりません「あ、そう」で終わりです。
強く相手の意識を向けるには、自分事として考えてしまうほどの具体例が必要なのです。色素性乾皮症の記事に私が目を奪われたのは、症状が顕著になる車内でのエピソードに心を奪われたからです。エピソードを読んで、「もし自分の子どもの身に起こったら」と、自分事として考えたからです。自分の身に起こったときのことを考え、どんなに悲しいかを思い、感情が揺さぶられたのです。病名や病気の特徴だけを読んだのでは、心を揺さぶられることは無かったでしょう。
文章には、相手の心を揺さぶるため、情緒的に訴えられる、けれど物事の一面しか伝えられない、そんな不器用で使い勝手の悪い、個別的な具体例が必要なのです。
一面を全体だと錯覚する。文章には具体例が必要
私たち人間は、完璧な論理人間にはなりきれません。
個人的な経験を伝えれば、相手は勝手に事実を膨らませて想像してくれます。不安だった話をすれば、
「ああ、それは大変でしょう。もしかしたら〇〇なことも思っているのではないですか? そんな事になったら〇〇になるのは当たり前ですよね」
と、あること無いことや聞いたことも聞いていないことも事実として勝手に思い浮かべ、それがあたかも普遍であるかのように錯覚します。たとえ伝えられた情報が個別な具体例であったり、隔たった一面であっても、それが全体であるかのように想像するのです。全体を想像し、そこに自分の立場を当てはめて考えます。
このように私たちは、個別なエピソードから勝手に想像を膨らませます。一面から勝手に全体を想像し、そこに自分を当てはめて考える。自分事として考える。その結果、エピソードは相手の心に残る。だから、文章には具体的なエピソードが必要なのです。