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小5「バナナ320本で死ぬ」。読売新聞記者こそ情報を偏食している

 読売新聞一面に「情報偏食 ゆがむ認知」という記事があり、ツッコミたくなる内容だったので紹介します。子どもたちがインターネット上の根拠ない情報を信じている、という危機感を煽る内容。

 社会のデジタル化は、子どもたちの成長にも影響を及ぼす。インターネット上にあふれる真偽ない交ぜの情報に無防備なまま接すると、思考や想像力、判断する力が犯されかねない。〔中略〕教育現場に迫る危機を報告する。

読売新聞 2023/5/29

 例として、小学5年男児の「バナナ320本で死ぬ」という発言が載っていました。

 今年1月のある日、学校に給食のバナナが出た。1本を3等分にした大きさ。口に放り込んだ男子児童は急に大声を上げた。「バナナを320本食べると、死んじゃうんだよ」
 教室の最後列に座る男子児童を同級生が一斉に振り返った。「そうなの⁈」。みんな驚いた様子だった。ネットで見つけた、とっておきの情報。彼は少し誇らしく思った。
〔中略〕
 でも、同じことを伝える動画を何本も見た男子児童は「本当のことだ」と信じて疑わない。だから、同級生の注目が最初だけで、すぐに意識がなくなることが気に入らない。

読売新聞 2023/5/29

 男子児童のバナナ発言を一つの例として「子どもたちは情報を偏食しているので、物事を歪んで認知している」との理由を導き、そこから「だから社会のデジタル化は危険だ」と結論づける内容となっいます。


 けれど、この結論には反対です。というのも、記者の方こそ情報を誤って信じているから。子どもたちの言動から彼らが本当に信じているとは言えないにも関わらず、子どもたちが偽情報を本当に信じているかのような書きっぷり。あるいは、記者が誤っているのではないのならば、わざと読者を煽るように書いているのでしょう。記者自身の意見を、あたかも事実かのように書いています。

 第一に、どうして記者は「彼は少し誇らしく思った」と判断したのでしょうか。男子児童が自分で「誇らしく思った」と言ったのでしょうか。いや、男子児童が自ら当時を振り返って「その時、僕は誇らしく思いました」などとは言わないでしょう。「そんなこと言ったっけかな」くらいに覚えていないのではないでしょうか。しかも、謙虚に「少し誇らしく思った」らしいです。百歩譲ってその男子児童が「誇らしく思った」のだとしても、「少し」というのはどこから来たのか。自分で「少しです」と言ったのか、それとも周りがそう思ったのか。

 第二に、『男子児童は「本当のことだ」と信じて疑わない』と書いてありますが、この部分にも同じような疑問が浮かびます。記者はどうしてこの児童が信じて疑っていないと判断したのでしょうか。男子児童が自分で「本当のことだ」と言ったから、記者が「この男子児童は信じて疑っていないのだろう」と判断したのだとすれば、この判断は早計です。なぜなら、男子児童が自身の本音を言葉で表現したとは考えにくいからです。記事によると、この男子児童は周囲の注目が最初だけで、すぐに意識しなくなることが気に入らないとの事。であれば、男子児童はデマとわかっていながら、わざと周囲の注目を浴びるような発言をしたと考えられます。

 第三に、この発言をしたときの周囲の状況についての記述です。「同級生が一斉に振り返った。「そうなの!?」。みんな驚いた様子だったとありますが、この記述を読んで、他の児童が当該男子児童の発言を「驚いた様子」で聞いていたとは思わないでしょう。おそらく「〇〇くん、また何か面白いこと言ってるよ~」くらいの気持ちだったのだろうと思います。もしこの男子児童が周囲の注目を集めたい性格なのならば、日常的に大げさな情報を周囲に伝えていたと想像できます。であれば、周りの児童も、男子児童の発言に慣れて、徐々に驚かなくなるのでしょう。

 『論理病をなおす!』という本があります。この本は、人の思考パターンである詭弁を使って、論理的思考を批判的に考える内容。この本の第二章で、著者でレトリック学者の香西秀信氏は、言葉の曖昧さが誤った論証をもたらす危険性について、次のように述べています。

 『「人は死んでも生き返るか」という小学生にしばしば尋ねられ、そしてその結果がいつでも問題となる問』について

 この曖昧な問を、小学生は具体的にどのような現象を指すものとして理解したのか。単なる医学上の蘇生か、あるいは何かの機械をリセットするように、死んだ人間が文字どおりそのまま生き返ると考えたのか、もしくは生まれ変わりや、クライオニクス(人体冷凍保存)みたいなものを思い浮かべたのか。だが、これも、例えば「人は死んで火葬されても、何らかの科学的根拠を施せば、死ぬ前の状態で再び全くの同一人として生き返ることがあるか、そういう実例を知っているか」という問であったら、おそらく答は何の意味もないわかりきったものになってしまうだろう。この問は曖昧であるからこそ、それを問意義があり、その答に興味関心が生じるのである。(もっとも、「人は死んでも生き返るか」と尋ねられて、はたして小学生が真面目に答えたのかということも考えておかなくてはならない。子どもといえども、こんな問に照れ、韜晦するくらいの知性はある。)

論理病をなおす! 処方箋としての詭弁(ちくま新書)

 つまり小学生の、目に見える言動から「それが彼らの本音だ」と結論づけることはできないのです。ただでさえ、相手の目に見える言動から結論づけることはできないのに、ましてや今回の記事には、記者の意見がたくさんあります。取り上げた上記3点の他にも、男子児童が「『死』を現実のものとして意識するようになった」との記述があり、読者を煽っている感が否めませんでした。男子児童が「死」を現実のものとして意識するようになった、とはどういう意味なのでしょう。言葉どおりに受け取るなら「生物はいずれ死ぬ。自分も生物である以上、死を免れない」と解釈でき、それであれば健全なように思います。けれど、この哲学的問題を小学生児童が意識したとは考えにくく、周りの大人の意見が多分に入っているのでは。

 私も小学生のころ、この手の「人は死んでも生き返るか」という類いのアンケートに答えた記憶があり、その際は本音を書くのが稀でした。目立ちたくて、あるいは問を出した先生に反抗したくて(問を出していたのは先生ではなかったのでしょうが)、根も葉もない答を書いていました。

 記事「情報偏食 ゆがむ認知」の末尾には専門家の意見として

「知識や考えを主張する子どもは以前からいたが、ネットの普及で、その内容が偏向したり過激化したりしている。周りの子どもが感化されないよう、当人だけでなく教室全体で問題点を考えるようにする必要がある」

読売新聞 2023/5/29

と書いてありました。この意見はそのまま記者に返せます。男子児童の言動を偏向してとらえ、過激化して記事にしているからです。感化されないよう、読者は社会全体で問題点を考えるようにする必要がある、と。

 新聞記事を読んだのは、K県内にある県道沿いのファミレス・ジョナサン。注文したのはモーニング・セット。運ばれてきたプレートには、ソーセージやスクランブルエッグと一緒に、これまでたくさんの人が使ったであろう、色褪せやらこすり傷やらが載っているのが見えました。


参考

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