借り物の言葉じゃなくて、「私の言葉」を放ちたい
言葉にできない思いだけがぐるぐるぐるぐる胸の中を巡っている気がする。
こういうとき、私はすぐに本やネットのなかの誰かの言葉に答えを見つけようとしてしまう。
それらはとても便利で、私が言葉にするよりも断然わかりやすく、共感できる言葉になっている。
「そう、これだよこれ!私が言いたかったのは」
同じように感じている人がいること。その嬉しさに一瞬の快感を覚えた後、またすぐにぐるぐるしてしまう。今度はモヤモヤした感情まで付いてくる。
「これじゃあ私が言葉にする意味ないな」「同じこと言ってもな」
こんな思いが頭の中に浮かぶ。一種の無力感といえばいいだろうか。
私のなかの言葉にならない想いたちが、言葉にされるのを今か今かと待っていたのに、言葉として外に飛び出していけない不消化感もあるのだと思う。
ぐるぐるぐるぐる同じところを歩き回って、どこにも辿り着けないと嘆き焦っている。
どこに辿り着きたいのかがそもそもわかっていないとき。
朧げに分かってはいても、どうしたら辿り着けるのかわからないとき。
こういうとき、私に必要なのは、
立ち止まることと試行錯誤する勇気なんじゃないかな、と思う。
今の私は立ち止まっているよう見せかけて、やっぱり誰かの言葉に縋りたくて、小さくジタバタしているんだろう。
わかりやすいものを求めてしまうし、すぐに「答え」や「正解」を探してしまう。
立ち止まっているとき、時間を無駄にしているような、何も生み出せていない罪悪感のような気持ちを抱くことがあるけれど、
「それの何が悪い!」「私は一生懸命自分と向き合っているんだ〜」と自分に言ってあげる。ただそれだけで本当はいいはず。
それに、無駄かどうかって、そのときすぐにはわからない。
後々に活きていくことだってきっとあると信じていたい。
行動したらすぐに結果が出ることが第一!みたいな風潮もあるけれど、それだけじゃない部分にだって、私は目を向けたい。
ゆっくりゆっくり自分の言葉と向き合って、あーでもないこーでもないってやるからこそ、だんだん輪郭ができてくる。自分らしさになっていく。
できればそれをノートに書き留めておいて、寝かせて見直す。
数ヶ月後数年後の自分がそれをみたとき、何かが弾けたように「ぽんっ」と浮かぶことがあったりする。
(日記を続けて4年。過去の自分のなんてことない言葉に救われることって、ある。)
どんなに誰かと似たような言葉になっても、試行錯誤しながらかたちにした言葉って、自分のなかに残り続ける。1個1個は点でも、それが集まって、違う場所に辿り着けることもある。すごい人の文章じゃなくて、私の文章に共感してくれる人もいる。
だから私は、言葉にすることをやっぱり諦めたくない。
言葉になる前の言葉未満の想い達を一つひとつ掬い取るのは骨が折れるけれど、1人静かな空間で、本もスマホも手に取らず、ただただ自分の内側に問いかけて寄り添う時間をつくりたい。
季節も秋めいてきたし、秋の夜長にぴったりかも。
じゃあどうやって自分の想いを掬い取っていくの?という方法についてはまた次の機会で書けたらいいな。