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私が父を捨てた日
私の母は2日前に63歳を迎えました。
その母は19歳の時に初めて結婚をして、結婚半年後に旦那さんが白血病でこの世を去りました。
それから、何年か後に再婚しました。2回目の結婚相手が私の父親です。
その父親はギャンブルと宗教にハマり、そして、不倫の挙句、離婚。その時母は、卵巣に持病があり、このままだと、子宮まで広がる可能性があるから、1つ卵巣を摘出しました。そして、奇跡的に妊娠が発覚しましたが、妊娠中毒症を患っていました。出産の1週間まで、仕事に明け暮れ、ようやく、産休を迎え病院での検査の日、母の主治医はこう言ったそうです。「この状態(妊娠中毒症)のまま出産を迎えたとしても、死産か障害を持って生まれてくる可能性が極めて高い」
それでも、母は出産することを選びました。自分の子供が生まれてすぐに命が途絶えたとしても、一生障害を持つ運命の子だったとしても、母は出産するという答えを出した。それから、1週間後、私が生まれました。未熟児ぎりぎりの女の子が誕生しました。一声だけ、産声をあげ、それからは、泣くこともありませんでした。看護婦さんは赤ちゃんが泣いたら、ミルクを上げてくださいと言って立ち去りました。私は泣かないから、ミルクをもらえない。しかし、母の母が、こう言いました。
「泣く力がない場合はどうすればいいのか?それでも泣くまでミルクを与えるなということは、この子を殺すのと同じこと。」だと。
それを聞いた、看護婦さんは
「じゃあ2時間おきに与えてください。」と言い残し去って行きました。
今ならわかる。2時間置きに授乳というのがどれほど、しんどくて、大変でつらいことか…
それでも子供の命がかかっているから、母は自分の体力が続く限り2時間おきに授乳を続けた。
そのおかげで、私は無事1か月検診を終えました。
その母が生まれたばかりの私を連れて、実家に1週間の里帰り中、母の第六感が何かを感じ、その何かを確かめるために、1週間ではなく5日間で実家を離れ、父がいる家に戻ったら、まさにそこは、不倫現場だった。それから、母は離婚を決意し、私は生後1か月で、父親のいない子供になってしまった。
それから、母の実家の近くで親子2人暮らしを始めた。
私が小さいころから、母は私の父親のことはオープンに話してくれた。なぜ、結婚をしたのか、離婚をしたのかなど、母にとっては良くない思い出だったと思う。そして、いつも最後に言う言葉。
「会いたかったら、いつでも会いに行っていいよ」と。
私は、母には言ってないが、一度だけ父親に会いに行ったことがある。
私が23歳の時。ちょうど、美容師として、カットデビューが決まり、これから、365日ずっと美容師として生きていこうと誓ったその年、
私は父親に会いに行くのを決めた。電車とバスを乗り継いで、ようやくたどり着いた、初めての場所。
そこには、【〇〇整骨院】の看板。
ここだ!と思って中に入りました。
受付の看護婦さんが
「どうぞ、お入りください。」と声をかけてくれた。
その看護婦さんが父親の不倫相手だ。母から昔聞いていた。母が不倫現場を目撃し、その後、二人は結婚したと。
私は、「〇〇さん(父親の名前)いらっしゃいますか?」
と尋ねた。
受付の看護婦さんは「どちら様ですか?」と。
私は、「〇〇(父親の名前)の娘です。」と言った。
受付の看護婦さんはすべてを理解した面持ちで奥にいる旦那である私の父親を呼びに行った。
1~2分後
ドアが開いた。
私は、一目見たとき、自分にそっくりだと思った。
当時の私は〇〇に似てるね~と言われても、母親に似ているといわれてもあまりピンとこなかった。けれど、ドアが開いとたん、まるで自分が立っているかのような錯覚がした。
そして、バスの中で会ったら言おうと考えていた言葉、
「私は、生まれてきたことに感謝します。あなたがいなければ私はここにはいなかった。そのことだけは本当に感謝しています。でも、もう二度と会うこともないし、会いたいとも思いません。今日が最初で最後です。」とガタガタ足を震わせながら、若干23歳の私が勇気をだしていった言葉。
それを聞いた父親は大きく頭を下に振り「わかった。ありがとう。」
と言った。
私は出入り口のドアを閉めて、後ろを振り返ることもなく駅に向かいました。私は、この時父親を捨てた。
昔、母親が言っていたことを思い出す。
父は「離婚するなら、養育費は払えない。それが嫌なら、子供は置いていけと。」
それでも母は「お金なんていらない。この子がいれば十分」だと言って私を育ててくれた。
今の私があるのは、母のおかげだ。
ありがとう
それから、14年が経つが私は父親に会っていない。そして、これからも会うことはないだろう。
そして、母はもう結婚はこりごりだと言っていたが、私が10歳の頃、母は私に今のパートナーを紹介してきた。
喫茶店で待ち合わせをしていた。「なんでも注文していいよ」と知らないおじさんに言われて、私はパフェを注文した。上にトッピングされてるイチゴとクリームを少し食べて、もういらないと言ったパフェを母に渡した。
それから、そのおじさんと母との3人との暮らしが始まった。
当時10歳の私は、すべてを理解していた。10歳なりに。きっとここで反対したらよくないような気がした。もし反対すれば、自分が将来彼氏を連れてきたときに、反対されそうな気がした。だから、私は母の恋を反対しない代わりに将来自分が連れてきた人を反対させないように、10歳の私がとった行動でした。
そして、母を取られるような気もしたし、自分が邪魔もののような気もした。
だから、母の転職で夜勤勤務が決まったとき、私は自ら、母との生活から離れ、祖母の家で暮らすことを決めた。
それからも母は結婚することもなく、ずっとそのおじさんと暮らしている。
今も結婚していないが、そのおじさんというのは、私の父親になったのである。
今はじじちゃん、それが私にとって一番呼びやすい。結婚してても、してなくても、血がつながっていても、いなくても、家族。一緒に暮らして、時間を共有すれば、それはもう立派な家族。
私はそう思っている。
私が、noteを書くこと。
それは、
母になった私でも夢を追いかけることができる!ということを証明したかったし、ブログでお金を稼ぎたいと思った。
しかし稼いだお金でどうするか?というのは、考えてなかった。
が、noteを初めて、40回目の記事を書き終えたとき、私は、このブログで親孝行ができないだろうか?と考えた。
この前の母の誕生日、私はクロックスをプレゼントしたが、本当は、車が欲しいといわれた。今乗っている軽自動車がもうすぐ8年を越える。だから、車が欲しいといわれたが、日本円をたくさん持っていない私。
ブログで稼いだお金で母に軽自動車をプレゼントしようと決めた。
親孝行を始めよう!
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