あなたがいないのに世界が美しい。それが悲しい。
大学院の時、最も苦手な授業は「漢詩」の授業だった。
漢詩に込められた情報量が多いから、読み解きが難しいためというのが主な理由である。でも、嫌いなわけじゃなかった。好きな漢詩の詩人はと聞かれたら白居易と答えるけれど、一つ、ピンポイントに好きな漢詩がある。
唐の時代の趙嘏(ちょうか)という詩人の、「江楼(こうろう)にて感を書す」という詩である。参考に白文・書き下し文・現代語訳を以下に。
【白文】
江楼書感 趙嘏
獨上江楼思渺然
月光如水水連天
同來翫月人何處
風景依稀似去年
【書き下し文】
江楼にて 感を書す
独り江楼に上れば 思ひ渺然(べうぜん)たり
月光水の如く 水天に連なる
同(とも)に来(きた)りて 月を翫(もてあそ)びし人は何(いづ)れの處(ところ)ぞ
風景 依稀(いき)として 去年に似たり。
【現代語訳】
江楼で感じたことを書く
ひとりで江楼に上れば、思いは遙かに果てしなく広がる
月光は水のように澄みわたって、河の水は天に連なっている
ここに共に来て、一緒に月を楽しんだ人は、どこにいるんだろう
この風景は、去年とただただそっくりで、全く変わっていないのだ
※渺然…はるかに果てしない様子
※依稀…よく似ている
江楼というのは、河沿いにある塔のような高い建物のこと。だから、詩に出て来る月光で照らされた水、というのは河のことである。月光は水のように美しく、その光で照らされた河の水との境目がわからないくらい。だから、河が空とつながっているかのように見える。そういう美しさだ。
そして、以前にこの塔に一緒に来て、この風景を眺めた人は、今は一緒にいない。作者は一人で眺めていて「あの人はどこにいるのだろう」と思いを馳せているのだ。
風景は去年と同じで変わる所はないのに、ただ、隣にいたあの人がいない。
隣にいたあの人がいないのに、去年来たときと、この景色は何も変わらないのだ。
きっと、昨年訪れた時の会話や状況を思い返しながら、孤独さをひしひしと実感しているのだろう。具体的にどんなことを考えていたのか想像しようかとも思ったが、この詩の場合は、敢えて踏み込まないという楽しみ方もアリだろう。
目の前の、透明感のある風景を描写しつつ、胸にじんわりと広がるような切なさやさみしさを感じられる、そういう詩ではないかと思う。
現代語訳にある「一緒に月を楽しんだ人」は、作者の趙嘏の妻(※愛妾とも)のことだそう。趙嘏は彼女を心から愛しており、とても仲むつまじかったという。詩単体で読めば失恋の歌にも解釈できそうだけれども、この場合ははっきり死別の歌である。
昨年は妻と二人で楼に上って一緒に眺めた美しい風景を、今年は作者が一人で見ているわけです。第二句の透明感ある水と空の描写が、また悲しさを引き立たせている。
詩の中には「悲しい」とは一言も書いていないのに、作者の気持ちが伝わってくる。
愛する人がいなくなること。
それは世界がひっくり返ったようで、違う世界に放り込まれたようなこと。
人によってはもちろん、何を見ても以前とは全然違って見えると感じる人もいるだろう。というか、私は、今までそういう考え方の方しかできていなかったような気がする。幸いなことに、私はまだ、本当に近しい人が亡くなった経験がない。大好きなおばあちゃんやおじいちゃんが亡くなった時は悲しかったけれど、近くに自分の家族がいたから乗り越えられた。
だから、まだ身を切るような別れは体験していないけれど、大切な人がいなくなったら、何も美味しくないし、何も美しくないし、何も楽しくないのだろうと思っていた。
けれど、この詩を読んで、ハッとさせられたのだ。
もしかしたら、それだけではないのかもしれない。
この詩も、愛する人が亡くなった直後とは、また世界の見え方が変わってきている頃なのかもしれない。
「隣にあの人がいないのに、美しいものを見たら、やっぱり美しい」
それ自体が悲しい。
世界があの人を気にかけていないように感じるのも、自分が美しいものを美しいと感じてしまう。
それも、悲しい。
「世界は変わらず美しく在るのに、どうして、ここにあの人はいないんだろう。去年確かにここにいたあの人は、今どこにいるんだろう」
そういう感じ方が、私にとってはすごく斬新で、繊細で、この詩が特別なモノになったのだ。
今日のテーマは以前カクヨムにも投稿しており、カクヨムの方が作者についてなどもう少し詳しく解説しているので、一応リンクを貼っておきます。カクヨムの方には、関連して在原業平の和歌についても書きました。
ご興味ある方はよかったら。