『新撰髄脳』本文と現代語訳
今日は休憩回って感じですが、今までの『新撰髄脳』の本文まとめと、現代語訳まとめを載せます!
昨日のは要約でしたが、今日のは頭から訳したやつって感じですね。一部意訳ありますが基本的には辞書にある意味も採用しつつ訳しました。
今回本文に使用した古典文庫は私がAmazonで清水の舞台から飛び降りるくらいの勢いで1万円で買った文庫本です。内容が素晴らしすぎたから買った価値があった。
『新撰髄脳』
本文
歌のさま三十一字惣して五句あり。上の三句をば本と云、下の二句をば末といふ。一字二字のあまりたりとも、うちよむに例にたがはねばくせとせず。凡歌は心ふかく姿きよげにて、心にをかしき所あるを、すぐれたりといふべし。事多く添くさりてやと見ゆるがいとわろきなり。一筋にすくよかになんよむべき。心すがたあひぐする事かたくば、まづ心をとるべし。つひに心深からずば、姿をいたはるべし。そのかたちといふは、うちきゝきよげに故ありて、歌ときこえ、文字はめづらしく添へなどしたる也。ともにえずなりなばいにしへの人おほく本に歌まくらを置て、末に思ふ心をあらはす。さるをなん、中頃よりはさしもあらねど、はじめに思ふ事をいひあらはしたる、なほつらき事になんする。イアリ貫之、躬恒は中比の上手なり。今の人の好む、これがさまなるべし。
(古典文庫『公任歌論集』より引用)
現代語訳
歌の形式というのは三十一字で全部で五句ある。上の三句を「本(もと)」といい、下の二句を「末(すゑ)」という。一字、二字の字余りがあっても、読むときにおかしくなければ欠点とはしない。総じて歌というのは「心」を深く詠み「姿」を整えて、趣に興味深い点があるものを「優れている」というべきである。事柄を多く付け加えて鎖のようにずらずらとつながっているように見えるものが非常によくないのだ。一途に真っ直ぐによむべきなのだ。「心」と「姿」を両方備えることが難しければ、まず「心」を取るのがよい。最後まで「心」を深められなければ「姿」に気を使うのがよい。その(姿の)形というのは、聞いたときにすっきりと綺麗で風情があって、「歌」に聞こえ、言葉は斬新になるように付け加えるなどしたものである。(「心」と「姿」の)両方ともできないならば、昔の人の多くは「本」に「歌枕」を置いて、「末」に「思っている『心』(詠みたいこと)」を表現している。ところで、少し前からはさほど重要なことでもないが、はじめに「思っていること」を言い表すのは、あまりよくないこととする。紀貫之、凡河内躬恒は少し前の歌の上手である。最近の人が好むのは、彼らの家風である。
訳出が難しいのが「くさりてや」と「得ずなりなば」と最後の「べし」でしたね……。「くさりてや」については本編でも書きましたが、「鎖」で訳してあります。
「得ずなりなば」は、ざっくり「できないなら」としました。
「べし」の用法は一応推量になるのかなあ……かなり確信を持っての推量だと思うので、今回は訳出はしませんでした。
貫之の前の「イアリ」は、「異同あり」のことかと思います。他の写本では違うことが書いてあるよーっていう印みたいなやつです。
では、今回はここまでです!