時代が変わっても変わらないもの

 大学院にいたとき、先輩や後輩たちと雑談をしている中で、私が「平安時代の人も現代の人も同じなんだなあと思う」みたいなことを言ったら、それを聞いた先輩は「平安時代の人の気持ちは現代の人とは全くの別物だから同じにしてはいけないんだ」という旨の意見を言っていた。

 先輩曰く、「平安時代と現代では環境や文化が全く違うのだから、物事への感じ方も考え方も全く別のもので、共通してはいない」とのこと。

 確かに、環境や文化が違えば思考や感じ方も異なる。そのときは、先輩が言った意見だし、「確かにそうだ」と思う気持ちもあり、すぐに反論が思い浮かばなかった。先輩としては、平安時代のことを現代に引き寄せて考えるのは良くない、ということが言いたかったようだった。文学を研究する者としては、それが正しい意見であり、研究の時に必要なラインなのかもしれない。以前の記事にも書いたが、論文に「想像」は書いてはいけない。確かな証拠がある事実を取り扱うのが研究者の役割なのだ。
 けれど、それ以降も古典を読むごとに、「本当にそうなのかな」と何度も自問自答した。私には、平安時代の人の気持ちや行動を現代に引き寄せて……現代と似た感覚なのだと考えることは、悪いことだと思えなかった。

 現代の男性が頭の上で結んだ髪の毛をみられたって、パンツの中を見られているような気にはならない。現代の男女が顔を合わせても、「あ、顔見ちゃったから結婚しなきゃ」なんて思わない。
 平安時代の人から見たら、男女が並んでいるだけでも卒倒ものかもしれない。和歌を詠まない文化は寂しいと思うかもしれない。

 でも、そんなことを言ったら、現代の他国間同士も変わらないのではないだろうか。環境や文化が全く違うから、共通の感情はないし、相手のことをわかることはできない、と言えるのだろうか。
 私たちは、異文化の外国人とも仲良くなれる。 
 同じ国に生まれていたって、個人の価値観や考え方は異なる。
 同じように育てられた兄弟でも、好きなものや嫌いなものは全く同じにならない。それでも、同じ環境にいれば、共通のものは多くなる。

 同じ環境・同じ文化・同じ時代に生まれた二人と、別の環境・別の文化・別の時代で生まれ育った二人との違いは、共通のものの数が「多い」かどうかというところでは無いだろうか。心を澄ませて見れば、共通のものは「有る」。
 別の文化であったり別の環境であったりしても、親を思う気持ち、子を思う気持ち、褒められたら嬉しいと思う気持ち、恋をしたら相手に会いたくてたまらない気持ち、そういう人間の感情は環境や文化が違ってもきっと同じなんじゃないだろうか。(これは人類全員に共通する感情というわけではなく、たくさんの人間がいたら同じ気持ちを持っている人は必ずいる、という趣旨である。親が嫌いな子もいるし、褒められたって嬉しく無い人はいる。でもそういう気持ちだって、きっと違う時代、違う文化の誰かと共通しているだろうと思う)

 「異世界もの」のライトノベルもそうだ。エルフがいてもモンスターがいても魔法があっても、今こうして生きている私たちと通じるものはあると心で思っているから物語が成り立っている。
 
 平安時代と現代は千年くらい違う。平安時代にあったものが現代にはなかったり、現代にあるものは平安時代になかったりする。
 けれども、現代に残っている恋の歌を読めば、好きな人を思う気持ちに共感する。子に先立たれた母の話を見れば、一緒に涙してしまう時もある。

 もちろん歴史的に正確な認識や知識は必要だ。けれど、親しみを覚えてこそ「知ろう」という気持ちが生まれるのではないだろうか。
 古典を学ぶ中で現代にも活かせることを見つけるのが「温故知新」である。古典の中にある「人の気持ち」は、ずっと共通しているから、一千年の時代を経ても残り続けているんじゃないだろうか。

 だから私は、これからも古典に描かれた人たちを友達や知り合いのように紹介したいと思うし、それを読んでくれる人が、平安時代やその時代に生きる人を身近に感じてくれたらいいなあと願うのである。

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皐月あやめ
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