学パロで『新撰髄脳』③〜良い和歌とはなんぞや〜
前回のはこちら。
新撰髄脳本文
一字二字のあまりたりとも、うちよむに例にたがはねばくせとせず。凡歌は心深く姿きよげにて、心にをかしき所あるを、すぐれたりといふべし。事多く添くさりてやと見ゆるがいとわろきなり。
(古典文庫『公任歌論集』より引用)
今回は前回よりちょっと長め。
要点をいくつかまとめると……。
・31字でできてるって言ったけど、声に出して変じゃなければ字余りもOK。
・良い和歌は、「心」と「姿」が共に優れていて、独創的なもの。
・悪い和歌は、言いたいことをあれこれ詰め込み過ぎてダラダラ続いてるようなもの。
「声に出して変じゃなければOK」という部分については、具体的にわからなかったので調べました。
昔、和歌は声に出して読み上げられることを前提で作られていました。和歌を作ることと「披講」と言って、読み上げ専門の人が歌うように和歌を読み上げることとがセットだったのです。
だから「声に出して」読んだときの語感も大事だったみたいですね。
字余りについては、『万葉集』から法則があるらしく、ざっくり論文等確認しました。
ちょっと専門的な話で私もまだ理解しきれてないんですけど、公任さんの和歌の場合については一応わかりました。
たとえば、公任さんの「滝の音は」は、平仮名にすると「たきのおとは」となり、それを伸ばしながら読み上げると
「たーきーのーおーとーは」→「たーきーのーーーとーは」
のように聞こえるわけです。実質5字と同じというか。
このように母音が続く場合は、聞いていて不自然じゃないのでセーフと。
さて、ここから「良い和歌とはなんぞや」中身の話。
マンガの黒板に書いたんですが、「心」とは、古語として訳すと「情趣」と言ったところだけれども、ちょっと漠然としている。もうちょっとつっこんで言うと、歌のキモであり、作者が言いたいこと……テーマと言ったところ。
類似例としては、プレバトで夏井先生が「作者の言いたいことはここですね」と、解説することがありますが、そのイメージです。
「姿」は、ざっくり言っちゃうと歌の体裁とかまとまりです。
「心」が歌の中身なら、「姿」は外見。テクで何とかできる部分ですね。
公任さんの場合、特に音を重視しているらしいのですが、それはまた明日。
あれこれ詰め込みすぎるのは良くない、というのも、プレバトで夏井先生が言っていることと共通の気がします。
詰め込みすぎると説明的になるし、ダラダラしてしまうから、言いたいことをしぼって勝負したほうがスッキリ美しくなるということでしょう。
ところで「くさりてや」という古文は私もよくわからなかったんですが、調べたら「腐り」と「鎖」の二説ありました。「腐る」は、古語では「くたる」と読むので、おそらく「鎖」に関係している方かなあと思って、今回は「鎖のように」と仮に訳しました。
『新撰髄脳』は訳が書いてある本を見つけられていないので、ブログ等で翻訳しているサイトも参考にさせていただきつつ、自力で翻訳しています。
さて、今日は「良い和歌ってこんなのだよ」という解説でしたが、「そうは言っても両方兼ね備えるのって難しくない?」という疑問に公任さんがお答えしてくれます。
追記:
次の記事はこちら。
https://note.com/cherryshion/n/n6ce4f4eaff99