同調圧力がテーマとなった物語『高柳父子』(滝口康彦さん 1957年)
コロナ禍において、危険なことは、人と人の関係が敵対的になり、そして、移動や接触の自由を政府が「自粛要請」というへんてこな訴えを国民にしたことで、人と人との関係そのものが「疎」となって、コミュニティが崩壊することだと考えています。
そして、それを加速するのは、日本人特有の「世間に顔向けができない」という精神構造、そして、「みな同じがいい」として異質性を排除し、あろうことか攻撃の対象にさえしようとするなど、我々日本人が「自己」を鍛錬してこなかったがために「個人主義」がきわめて脆弱になってしまっている結果だと思っています。
そんな今だからこそ、読み直したのが、この江戸時代中期の「詰め腹」を扱った小説『高柳父子』です。(滝口康彦さん 1957年発表 短篇集「一命」(講談社文庫)に掲載)。
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舞台は、佐賀鍋島の支藩の小城藩。時は1689年。江戸中期。
寵愛を受けた藩主が亡くなるも、高柳織部は、殉死(主君の後を追って自ら命を絶つこと)を拒否します。すると、同僚や上司はそんな伊織を白眼視して、やがて、徒党を組んだ彼らは闇夜に待ち伏せして刀を抜いて取り囲み、切腹をするように執拗に攻め立てます。藩主が亡くなった時に、織部以外で同様に可愛がられていた家来たちの多くが殉死したからです。それを、「もっとも藩主に目をかけられていたにもかかわらず、なぜ織部だけがのうのうと生きているのか?」という彼らの考えなのです。
結局、織部はその暴力的な強制に抗いきれず、彼らの面前で切腹することとなるのですが、その際に、彼は
「殉死ではないぞ。毛頭、殉死ではないぞ、覚えておけ。くそっ」と叫ぶのです。
お話は、その後、その織部の息子が、次代の藩主が亡くなった時に、ただ一人だけ進んで殉死をして、父が当時の同僚らの同調圧力により切腹せざるを得なかった事実を思い出せることで、亡父の無念を晴らすという結末となります。
いかがでしょうか?
この「殉死」という言葉を「自粛」と置き換えると、令和2年になります(笑)。
私が志向している「魅力発掘プロデュース」の基本精神はこの、「人と人の間、ものとものの間、地域と地域の間の「違い」を発掘しして、それを「楽しむ」」という」ということです。ですから、このような「同調圧力」は、極めて強力な難敵です。
このご時世ですから、社会問題から、日本という国だったり、我々日本人の特性を吟味しながら理解を深め、魅力発掘プロデュースに活かしていこうと今思いを新たにしています。