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歴史に出てくる新説の、何が面白いか

歴史は常に塗り替えられている。その一部は、歴史教科書にもあらたに書き加えられた。実際にはそれだけでない。学会ではいつも新しい証拠が発表され、新説とともに話題になっている。昨今の歴史ブームもあって、そうした新発見の一部はニュースになり、また、今日では「新説」がいきなり単行本になったりもする。歴史ファンの僕としては、非常に心がときめく話だ。本書では、それら新説の面白さを、かいつまんで僕らに共有してくれる。ここでは、新説そのものではなく、そこから読み解く歴史の意外な側面をメモしてみよう。
冒頭画像もまた、歴史の新説だ(下記リンク参照)。遣隋使を派遣した時代の古代日本に、国際秩序を睨んだ外交的発想があったことに驚かされる。遣隋使、そしてその後の遣唐使への流れを見ていくと、中国史・朝鮮史の影響が極めて色濃く出ている。

遣唐使の廃止は、むしろ民間の国際商流を進めた

さてその遣唐使は、菅原道真が廃止してしまった。従来の教科書では、中国(唐王朝)末期の混乱に鑑み、日本はみずから「取りやめた」、とある。そして国風文化を育むことになったと解説されている。確かに、上流階層の間で生じたことは、その通りだろう。新しい文学も誕生している。しかし、唐では何が起こっていたかを考えてみよう。国が衰えても、人の活動が衰えるわけではない。むしろ沿岸部では、国家的統制が緩み、商人や海賊たちが自由に動き出した。しかも日本側では、貴族たちが「唐物」に味をしめ、国を閉ざしたとしてもその欲望は収まらない。そこで日中間は、民と民とでつながった。外交使節団(遣唐使)が途絶えても、むしろ国際間の商流が活発になった点は見過ごせない。

朝廷に歯向かった鎌倉武士たちへの評価

よみがえる承久の乱―後鳥羽上皇 vs 鎌倉北条氏

次のテーマは、承久の乱。これは2022年大河ドラマ(「鎌倉殿の13人」)の中心的な題材である。上記画像は、京都文化博物館のイベント案内だ。来年に向けて、だんだん盛り上がってきた。これは、武士の時代に移行する中での、朝廷(公家)側の最後の抵抗だと言われる。兵を挙げた後鳥羽上皇は幕府を倒し、朝廷に再び権限を戻そうと考えた、とか。しかし、そもそも当時、鎌倉幕府の組織としての存在感は大きくなかったようだ。上皇は、東国武士を束ねる北条氏を撃とうとした、それが「義時追討」だ。勝敗の分かれ目は、全国に増殖した武士たちの取り合いである。少なくとも朝廷側はその程度の認識だった可能性が高い。幕府を倒すとか、武家政権を瓦解させるなどの目論見は見てとれない。後世、後醍醐天皇の建武の新政や、武家政権を倒して王政復古を図った明治維新が実現し、「公武」の争いが歴史の節目になった。承久の乱も、それに合わせて色眼鏡で見られるようになったのかもしれない。歴史とは勝者が創り、後の人々の視点で見てしまいがちだ。同時代史の資料を同時代史の視点で読み解く。そんな姿勢が必要になるだろう。

天下布武を掲げて「上洛」した信長は偉大だったのか

大河と言えば戦国時代。織田信長の、将軍を奉じての上洛は天下統一事業の第一歩だと。そう言えば巷のゲームは、京都上洛が定番の目標になる。史実でも、あの武田信玄が軍勢を率いて上洛したことから、戦国大名の政権奪取は京都に上ること、と解された。しかし、どうやらこのことも間違いのようだ。戦国時代は決して大名同士が天下争奪レースに邁進していたわけではなく、単に中央権力が弱体化した時期。実際、上洛をした大名は、斎藤義龍や上杉謙信など数知れず。将軍の要請を受けてのことだった。たとえば、京都の政権争いに早くから関わっていた朝倉義景。当時、三好一派と争いになることを恐れた。都の事情に精通すればするほど、戦になる怖さが湧いてくる。わざわざ義昭を担いで上洛しようとするのは、三好らが担ぐ義栄との全面戦争を煽るようなものだ。そんな事情に疎い信長は、知識や情報がなく、空気も読めないまま、無邪気に上洛してしまった。当初、幕府再興を掲げ意気揚々としていた信長。義景が懸念した都の地雷を次々と踏んでしまう。戦は長引き、繰り返され、当の信長も引くに引けなくなってしまった。そしてあろうことか、最後には幕府とも対立し、滅亡させてしまう。上洛した大名はいくつもあったが、信長のみが無知ゆえに、戦の泥沼にはまってしまった。たまたま彼は、無類の才の持ち主だったゆえに、その危機を乗り越えてきたが、組織に強いた無理がたたった。本能寺の変で命を落とすことになる。こうした信長像を見るにつけ、これまでの革新的な英雄像がいささか揺らぎ始める。

薩長同盟の真相、龍馬の英雄説はむしろ不自然

時代はくだって幕末。信長と並ぶ歴史上の英雄、坂本龍馬。彼の最大の功績は、薩長同盟の仲介だとされている。これにより、蛤御門で戦火を交えた薩摩藩と長州藩が和解、そして軍事同盟を結んだという。しかし、新説ではこれにも疑問がつく。龍馬が英雄視されすぎている、という。また薩摩藩の島津久光自身が、倒幕を志向し、かつそれを小松帯刀や西郷隆盛、大久保利通に指示していたとは到底思えない。もちろん彼ら部下たちが、久光を騙して倒幕を進めた証拠もない。諸々の状況証拠から推察するに、この時点では、長州藩の復権に薩摩藩が協力した、その程度と見るのが妥当のようだ。両者が盟約を交わした後、両藩の人的交流は一気に活発化する。こうして幕末の最終場面に至るまで、両藩の関係が少しずつ親密になり、最後の最後で、事実上の倒幕・軍事同盟になった。こう見ると、歴史の結果を知っている僕らはついつい、薩長同盟の頃から倒幕の流れが決定的だと思いがちだ。が、あの時点で倒幕が可能だ考えていた人間はそれほど多くないだろう。

太平洋戦争:バカは陸軍か、それとも?

そして最後は日米決戦(太平洋戦争)。従来は陸軍悪玉論が主流だった。日中戦争を泥沼化させ、満州国独立によって国連を脱退、蒋介石と戦うために中国奥地にまで兵を進めた。日本政府はこれをコントロールすることができず、関東軍(陸軍)が暴走した、とされる。これは確かに、一面の事実だろう。しかし、この広大な大地で、逃げ回る中国政府と戦うためには補給ルートを断たねばらない。それが南方(東南アジア)進出の理由になった。陸軍はみずからの戦略ミスで、戦争の長期化を招き、それを取り繕うため戦線を広域化させてしまった。他方、日本政府は、1940年の時点までアメリカのアジア参戦はないと判断していた。またそれを阻止するために、先手のつもりで三国同盟に踏み切った。あくまでも対米交渉を有利に進めることが狙いだ。つまり、戦争に勝ち負けはあっても、アメリカと戦うことさえなければ、日本が破滅に至ることはない、そう思ったのだ。当時、陸軍の敵はソ連であり、アメリカではなかった。しかも石油などの資源輸入はアメリカに依存していたことも日本政府は重々理解していた。ゆえに対米開戦には極めて慎重だった。ところが翌年、書面には「対英米戦辞さず」の文字が踊る。なぜか。海軍は、資源確保のための南進が必ずしもアメリカの関与を招かないと思い込んでいたようだ。むしろ政府内で強い発言権をもつために、予算を確保するために、海軍が虚勢を張ろうとした。そう見たほうがいいだろう。ただ想定外だったのは、アメリカが石油禁輸や経済制裁に踏み切ったこと。慌てた陸軍は短期決戦を提案し、海軍はメンツのために即時開戦で応じた。結局、誰もこのメンツ合戦を止めることができず、対英米への宣戦布告に至ってしまった。

対米開戦

まとめになるが、新しい証拠が見つかり、新しい解釈が生まれ、その都度、歴史を動かした要素の正体が見えてくる。いや、正確に言えば、だんだん増えてくるのだ。これでいいのだと思う。逆に僕らが今の時代に生き、後の人たちに一語で片付けられてしまうなら、どこか歯がゆい部分が残るはずだ。つまり、遣唐使の時代であれ、100年前の出来事であれ、当時の人々はきっと、今日の我々にこう言いたいだろう。


「そんな簡単じゃねーよ」って。


そこに近づくのが、歴史ファンとして感じる新説の面白さである。

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