“共感”と言う言葉が好きじゃない。 共感のワードの一つ 「分かるよ」 これが、本当にしんどい。 多くの場合において、それは善意によるもののように思う。 「あなたの気持ち、分かるよ」 「それって私も経験あるけど。大変だよね」 自分を励まそうとしてくれているのだろう。 だからこそ、その善意があるからこそ、その言葉は時に凶器にもなる。 その“分かるよ”は、きっと分かっていない。“分かっている”ことにされている。 自分の感じているあるもやっとした感情が、勝手に姿形をその人の思っ
大学のジムに常駐しているおじさん。 色々とジムなり体育館なりに関する管理を行なっている 大学のジムを利用する際には、使用する日時に自分の学籍番号を書かなくてはならない。そこに書いてある人数と実際に利用している人数に差があると、おじさんの監査が入る。 ある日、一緒に利用しようとした友人に、代わりに自分の学籍番号を書いておいてもらった。 しかし、どうやら間違えて別の曜日に書いてしまっていたらしく、おじさんの監査を受けた。 おじさん:「これ、この日時に書かれてないんだけど?」
Twitter、Instagram、Yahoo!ニュース、スポーツニュース、LINEニュース etc,,, ふとした時に見るこれらSNS 手持ち無沙汰の時にほぼ自動的に(自らの意思とは別の形で)開いてしまうこれらSNS これらSNSに対しての“嫌悪感”のようなものが歳を重ねるにつれて自分の中に増幅してきているのを感じる ある種の気持ち悪さ、違和感 表現するのが難しい。が、 “濃度の薄さ” という感覚がある. 実態がないのに勝手につかまされた何か、といった感触 SNSで
自分一人では絶対になされないことがなされる 自分一人では、“自分が実際に手を動かして行うこと” 以外のことは絶対になされない どれだけ自分が願おうと、望もうと 手を動かさないことはなされない どれだけ願おうが、手を動かさないことには 部屋は綺麗にならないし 料理は勝手に出てこない 冷蔵庫は貧しいままで 新しい本に出会うことも少ない 知らない歌手は知らないままで 将棋の知見を得ることもない 人と生活すると、自分がやってないこと、が勝手になされてることがある 「やってほしい
人と喋っている時に最も避けたいことの一つに「一般論に逃げる」ことがある。 なぜ避けたいかと言えば、「一般論に逃げる」ことは単純に“面白くない”からだ そこには個性やアイデンティティとされることが全く含まれていない。 一般論に逃げることを繰り返していると、“自分の意見”が醸成されない 自分の言いたいことを表現する度胸が磨かれない しかし、現実問題、「一般論に逃げてしまう」ケースは多々存在する 特に、少し目上だと自分が直感的に感じる人と喋る時、に一般論に逃げてしまう傾向にあ
大学の3年まで、多くの時間を基本的には一人で過ごしていた。 「そのおかげ」で向上した能力と、「そのせいで」不足している能力とがある。 今回は、「そのせいで」のはなし。 “そのせいで”、「他人との会話の中で自分の考えていること(オリジナリティ的なこと?)を表現する、伝える能力」を鍛えられなかった。 大学4年になって、基本所属単位が“個人”から“社会”になった。 「研究室配属」が起きたためである. それまでの3年間は自分一人で過ごすことが多かった。 友達を増やそうと思えば、
新しい環境に身を置くと、当然のことながら今まで属していた集団との距離は離れる。 中学や高校の友達、離れて暮らす家族、研究室配属の前によく一緒に居た友達。 こういう人たちと久しぶりに話す機会がある。 そんな時に、ほぼ間違いなく聞かれるし、こちらからも聞く言葉がある。 「最近どう?」である。 この言葉に対して、返す言葉はほぼ決まっている。 「まあ、”割と”楽しくやってます」 である。 なぜだかわからないのだが、 「楽しくやってます!」 と言えないのだ。どうしても、”割と”
大学が春休みに入り、早2週間が経過しようとしている。 特に課題ややるべき事に追われることもなく、日々が過ぎていく。その中で気づいたことがある。 この時間がある時に、自分が以前から少し興味があったことに手を伸ばすようにしている。 それらはほとんどが自分一人でできることだ。 小説を読む・哲学書を読む・サッカーを観る・専門以外の科目の勉強をする・英語を勉強する、、、① 多くの時間をこれらをすることに使っていた。 しかし、自分のやりたいことが出来ているにも関わらず、なんだか充実感
1時間くらいかけて掃除をやった。 スニーカーを洗った後で、いつも通り全体に掃除機を適当にかけたらこれくらい経っていた。 「さて、少し疲れたから休憩でもしよう」 と思ってソファに横になった。 なってからふと、 「“休憩”ってところで何すればいいんだ?」 と思った。 スマホ適当に触る?けど、経験上ただ無駄に時間を消費した挙句、少しの罪悪感を覚えるからしたくない。 本でも読む?でも、それって“読書”であって休憩とはちょっと違くない? あー、特に何も考えずボーッと横になればいい
勉強の才能とは色々ある。 高校の頃は、 「与えられたものをいかに要領よく理解し実践できるか」(*) だと思っていた。 教科書に書いてあることを効率的に理解して、問題が解けるようになることが才能であると。その才能がないから、時間をかけて何周も問題を解いてそれに対抗するしかないと。 最近少し認識に変化が起きた。 大学以降では、「勉強を選ぶことができる」ことも才能のうちかもしれないと思い始めた。 高校から一気に世界が広がり、自由も増える。世の中には面白いことが山ほどある。とてもじ
YouTube shorts もしくは TikTok のようないわゆるショート動画を見続けていると、なんだか「気持ち悪く」なる。 不思議なもので、この類の動画は無限に見ていられるような気がする。 短い時間で、ある程度の満足感も得られる。 少し暇が出来たから、YouTubeを何気なく開き、short動画を見始める。 気付けばスクロールする手が止まらなくなり、数十分経過している。 「これはまずい」と思ってYouTubeを閉じて、ホーム画面に戻る。 そこで残るのは「充実感」なん
現代を生きている人間にとって、「何もしない」という事は逆に難しいように感じる。 基本的に「何かをしなくてはならない」と感じるようにプログラムを書き換えられてしまっているかのようだ。 見えないが、確かに存在する何者かによって。 現在は大学の後期期間中である。 今までと比較して段違いに忙しい。課題やレポートがひっきりなしに自分の前に現れては消え、また現れては消えていく。 平日は忙しいからこそ、せめて休日くらいは勉強から離れようと心掛けている。触れない日というものは必要だと信
自分の意見を持つことは難しい。 正確に言うと、「自分の意見を持ち、それを後ろ盾を持たずに維持し続ける」ことが難しい。 社会とのかかわりを保ちながら日常生活を送っていると、多かれ少なかれ持論のようなものが生まれてくる。 特に根拠がある訳でもないが「自分はなんとなくこう思う」といった類のものだ。 上記のような持論を例えばAとする。 例えば、所属している集団の友人が「AじゃなくてBの方が楽しいよな!」としゃべっている状況。 例えば、著名人が「Aという考え方よりもCの方がいいで
つまらない話というモノが存在する。 確かに存在しているような気がしている。 それはどんなモノだろうか? 同じ話があったときに、 それを、つまらないと思う人間がいる。 一方で、 それを、おもしろいと思う人間がいる。 そこには“話”があるだけ。 誰かの口から、語り手から発される話がそこに存在しているだけ。 それを受け手がどのように解釈・咀嚼・味付けをするかだ。 受け手が面白いと思えば、それは「面白く」なる。 受け手がつまらないと思えば、それは「つまらなく」なる。 何かつま
横になるのが好きだ。 特に何をするのでもない。 ただ、ソファだったりカーペットの上、布団の上にごろんと横たわるだけ。 頭の中は色とりどりだ。 何か悩み事があればそのことで頭はいっぱい。 特に何もなければ、「特に何もないなぁ」と思うだけ。 眠くなれば寝るし、何かへのやる気がふつふつと沸いてくればそれをやる。 そんな時間が好きである。 そんな生産性も成長もないような、ただ無意味なように思える時間・所作・空間が好きである。 ただ、あまり人に言う気にはならない。 他人に「家で何
午後に起き、近所のスーパーに買い物に行き、コンビニで弁当を買って家で食べた。 そして、1時間~2時間くらいの昼寝をした。 せっかくの夏休みだ。 前期にかなり勉強は頑張った。その分こういった生活をしてもいいだろう。自分へのせめてものねぎらいだ。優雅な一日のはず。。 しかし、昼寝から目を覚めると、自分の胸の中にあったのは 「のんびりと心地よい日だ」 ではなかった、 「無駄な時間を過ごしてしまった」 であった。 これには、本当に嫌気がさした。 一体何が(誰が)自分をこんな気持