【心理学】異界

新年度開始

いよいよ新年度が始まりました。

世間ではいろいろと起こっておりますが、この春から新しい環境での生活が始まる人は多くいるでしょう。

かく言う私も本日から新しい職場への勤務が始まりました。

早速今日顔合わせやミーティングがあったのですが、前の職場にはなかった流れや手順、そして雰囲気に、文化や環境の違いを強く感じました。でも、郷にいったら郷に従え、と言うことで、明日からちょっとずつ慣れることにします。

さて今日のテーマは「異界」です。これまでと「異なる世界」についてです。


なんの意識もなく、心理学テキストの昨日の次のページを開いたところ、このテーマだったので、

「たまたまにしてはタイムリーすぎないか?」

と。

ということでたまたまです。


自我体験と異界

自我体験(自分自身に対して突然に違和感を持つという体験のこと。例えば、自分は本当に自分だろうか。など)は思春期や前思春期に起こる。

そして異界(不思議なもの、こわいもの、超越的なものなど)への興味もこの時期に始まる。

 この「異界への興味」はこの時期の子供の心にとって大切なことである。

 それは、

「自我体験」は友達(チャム)同士で言葉にしない(言葉にしにくい)ことであり、共有しにくいのに対し、

「異界」の話題は、言葉にでき、友達同士で話題を共有できる。かつ場合によっては宗教的で哲学的な思考を開始することにもつながる。

このように、友人と話題を共有することによって、この時期の不安定な心を受け止めたり、向かい合ったりすることにつながる。

異界との接触と創造性

現実に住んでいる世界と異なる世界に接触することは、子供たちの心の成長において、視野を広げたり、柔軟な考え方ができるようになるという意味で、とても重要である。

そのほかの意味として、心の中の異界を外在化し対象化し、それについて考えたり感じたりすることができるようになるということでも重要である。

心の中の体験は非常に捉えにくい。

異界というものが心の投影であるとすると、異界にはどこか「曖昧さ」がつきまとうことがとても重要。なぜなら、そのはっきりしない部分があることで、それに対して思いを巡らせたり、想像力を働かせることができるから。

しかし現在の我々を取り巻く異界(メディアでの物語、映像、ファンタジーなど)はどうだろうか。昔ながらの(怪談、都市伝説など)と比べて、“描かれて尽くされた異界”になってないだろうか。

人間の意図によって作られ描かれたものは人間の意識の範囲を超えることはない。そして描かれすぎるが故に、心を投影する余地がなく想像力と結びつくことも少ない。昨今の異界の多くは受け手にとどまるエンターテイメントになっている。

異界→異文化

身近な異界≒異なる世界として、引越し(転校)、留学などがある。


引越し。

前思春期はチャムの関係が、そして思春期は仲間との関係が大切な意味を持つ。

しかし引越し(転校)となると、違う土地で異なる文化圏での生活。

さらに自分の存在を心理的に支えてくれた友人との関係も失ってしまう。

そして親も余裕がないことが多い。

引越しが良い展開になることもあるが、多くは苦労を伴う。


海外からの帰国(帰国子女)

帰国子女とは日本ならではの言葉。他国では類した言葉は見られない。

これは日本の「同質化」という文化的特徴に関係している。

帰国子女には、他国での文化への順応と、日本に帰国後の文化への順応、の二重の難しさがある。

 ちなみに、ある論文によると、「9〜15歳の間に、文化の感受期がある」という指摘がある。

例えば、ある子供が8歳くらいまでに日本に戻ってきた場合には、その後数年も経てば日本語を流暢に話すようになるが、現地での言語を忘れてしまう。一方15歳を越えて日本に戻ってきた場合、現地での言語能力がさほど失われない代わりに、日本語の習得に困難をきたす、らしい。


留学

留学を志すのは青年期に入ってからがほとんど。

留学の動機は「社会に対しての違和感や反発」「既存の社会とは異なった自分のあり方の模索」「親からの独立」など、青年期特有の心性と関連している。

青年期は、前述した「文化の感受期」以降である。

ということは、自分のアイデンティティがどっちつかずで悩む…というよりも、

自分の母文化があるうえで、新たに異文化に触れることで、文化を比較したり相対化したりする。このことで柔軟な視野を持つことができ、理想化につなげることになる。


まとめと感想

異界に興味を持つって、個人の趣味興味の範疇かと思ったら、どうも心理的成長の中でごく自然なことみたい。そしてそれが成長において大切なことなのだと初めて知った。

小さい時の友達に、オカルト的なものがとても好きな友人がいて、いろいろ一緒に見たり遊んだり話したりした経験があるけど、確かに最近の“そういうもの”って、“余白”がない気がする。曖昧さを許さない、不寛容な社会がそうさせちゃってるのかなと思う。

引越しや転校については想像通りだったけど、帰国子女と留学ではそんなに違いがあるのかと、特にその時期による違いがそんなに大きいのだということを初めて知った。


勉強をしてていつも思うけど、「知ったか」なことってものすごく多いのと、「確かに知る」ことって大事だなと。…という当然なことを改めて思う今日この頃でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?