居場所と世界
まず始めに居場所と言う言葉はあまり得意ではなかった。つい最近までは。
居場所と言われると自然と、大勢や数人のグループ付き合いが連想されてしまう。少なくとも大学で1人で学食を食っている内は大学の居場所なんて程遠い感覚なのだろうと思っていた。この福岡の地で無下に居場所なんてものは探すのすら野暮だろうと。
逆に、この広い世界にはいるかもしれない。人の目を気にしてグループに属してはいるものの、どこかここが自分の居場所じゃないように感じている人も。
ふと思い、友達に相談した。
「居場所って言葉どう思う?」
最初は困惑していた友達も意図を汲み取ってもらい、こう答える。
「自分が自分でいられる場所が居場所なのじゃない?」
それが居場所なのだとしたら、あのカフェや古着屋、バーや食堂、ライブハウス、映画館などなど、足を踏み入れ、落ち着きを与えてくれた全ての場所が瞬間的には居場所と胸張って言えなくもないような気がした。もしくは高校卒業後に各地各所に散らばった友人達によって全国に居場所があるのかもしれない。
居場所って結局なんなのかわからない。けどアグレッシブに外向的に動く今、意外と居場所がないなんて口が裂けても言えないのかもしれない。
ここから少し遡り、以前の自分はこう言う。
「世界をたくさん知りたい。」
この「世界」というのは色んな場所や出会ってきた多くの人が内包する全てだと解釈してる。
バイトに行けばバイトの世界があり、大学に行けば大学の世界がある。先程の居場所の解釈と同じであり、あのカフェの世界、あの古着屋の世界、あのバーやあの博物館、1度足を踏みに入れると全く異なるそれぞれの世界がある。そのコミニティに属する個々や自身の知人や友人、家族でさえ、彼ら彼女らの世界があり、彼らと会話を交わすその瞬間はその世界の一部になり得ているのかなと勝手に認知してる。
ということから、大学に居場所は探せなくとも在学中は大学という世界は必ず引っ付いてくると考えていた。大学だけじゃ世界じゃないが口癖になりつつあるワタクシ、後悔があるとするならばそれを自身が1年生の頃に伝えたい。勿論、大学は知識や教養を得て、知見を広げる最適な場所である場所として有意義だと思う。最近はしっかりと大学の勉強を楽しんでいる。
この意の世界と言えばこんな言葉を耳にする。
「自分の世界を持ってる人はかっこいい。」
昨今、やりたいことを堂々とやってるだけなのに何故か楽しそうと言われることが多い。多くの人と遊ぶわけでもない、何か大それたことをなそうとしてるわけでもない。けど様々な世界を知ろうと努力している。遊びに行ったり、飲みに行ったりする友達ですらそこまでいないのに、自分の世界があるだけでこんなに豊かなのか...と実感する日々だ。
これらの経験や対談をふまえ、居場所や世界を多く保ちたいし、より多く知りたいと強く思うになって、今の生活に至る。
あの国がミサイルをぶち込む前に自分の居場所は自分で守れよって大好きな歌を引用して終わります。
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