Cheer Up!にたどり着くまで。その3
1998年になると、体調もだいぶ良くなり、そろそろ再就職を本格的に!という気持ちで焦ることが増えてきました。
自分が何をやりたいのか分からず試行錯誤していた時期です。
派遣で短期の仕事をしては、少し休んでまた探す、というのを繰り返していました。
ある地方都市の新しい施設に、DTM体験や映像編集体験ができるコーナーが新設されたので、市職員や関係者にデモンストレーションを行ってほしいという仕事はなかなか楽しかったです。
自分で原稿を作り、施設見学に来た人たちにDTMソフトの楽しみ方をデモするというもの。
まずは自分でDTMソフトパッケージの使い方を覚える準備期間、原稿を作る期間、実際にデモンストレーションする期間で2週間の仕事。
音楽にまつわる仕事ができるなんて!と本当に嬉しかった思い出です。
他人に説明する仕事が好きだということも認識しました。
その後、家電量販店の楽器コーナーに採用されて約半年働き、いろんな楽器のことを覚えました。
音楽に関する仕事なんてなかなかできないのに(まして地方では)、この年だけは本当にラッキーだったと思います。
ここでの経験は後々までかなり役立っています。ここでいろいろ覚えておかなかったら、現在幅広いジャンルのアーティストにインタビューするのに差し支えていたのでは?と思うほど。
他にも、CDショップの懸賞に当選して、この年のヒットアルバムを中心にした人気投票CDベスト100枚が当たったことも自分にとって大きなことでした。
何しろ短期派遣社員でつないでいたのでお金はなく、でも聴きたいアルバムはたくさんある状態。
そんな私の手元に届いた100枚のCD。J-POPのほか、ビートルズのほとんどのアルバム、マイケルジャクソン、当時の洋楽ロックの定番などが揃っていました。
嬉しくて嬉しくて1枚ずつじっくり聴きました。
1998年といえば5月にとても悲しいことがありました。
X JAPANのhideさんが亡くなったことです。
その時にファンというわけではなかったのですが、コーネリアスのリミックス・アルバム『96/69』に参加されていたということもあり、気になる存在でした。
改めて「Rocket Dive」を聴いてみたら、悩める自分を応援してくれるような感じが勝手にして、何度も何度も聴き返していつの間にか大ファンになっていました。
その時期は音楽雑誌で追悼特集が続々組まれたので、ほとんど買って丹念に記事を読み、hideさんの考え方や自分が好きだと思ったアーティストを応援する姿勢など共感することばかりでした。
hideさん自らが信頼する人たちと一緒に作っていた当時のWEBも素晴らしいものでした。
途切れてしまった日記に悲しくなりながらも毎日いろんなコーナーを見て、遅まきながらメーリングリストにも参加してファンの皆さんの悲しみの声、悲しみから立ち上がろうとする想いを読んでいました。
ファンの数人と交流して、のちに実際会ったりもしました。
忘れられないのは恵子さんというすごく可愛い女性。hide with Spread BeaverのKIYOSHIさんの大ファンでもありました。一緒に歌舞伎町を歩いて、新大久保で飲み会してカラオケに行ったのは楽しかったなぁ。メールのやりとりが途切れてしまったのは本当に残念。
初期のスカパラと交流があったと聞いていたので、なんとか消息を知りたくて、後に初期メンバーの寺師さんにお会いした時に聞いてみたのだけど知り合いではなくて残念…。恵子さん、お元気だといいなあ。
話は戻り、hideさんのWEBのリンク集には、ファンサイトへのリンクも多数貼ってありました。
ファンサイトを運営していた方から、「相互リンクしませんか?ってhideさんからメールがきて、バナー画像が添付してあった」と伺って、ほんとに胸が熱くなりました。
そこにインターネット時代における、アーティストとファンの新しい関係性を感じて、hideさんが生きていたらインターネットを使ってどんなことをしただろう?と思わずにはいられませんでした。
その時感じた思いも、Cheer Up!に大きく影響していると思います。
それゆえ、Cheer Up!にhide with Spread BeaverのDIEさんが登場して下さった時は、一人で「ううう…」と感激しまくっていました。
DIEさんのファンはhideさんのファンでもある方が多いとのこと。DIEさんも人一倍ファンを大切にされていて、メールやコメントへのお返事もまめな方です。
hideさんが生きていたら、インターネットで大規模なことを仕掛ける一方で、気さくにファンと交流していたかもしれないなあ。もしかしたらCheer Up!にも「OK!」って登場してくれたかも?なんて思ったりするのです。