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海のはじまり 第9話感想

大人になれば、自分の人生に責任を持てるのは自分しかいない。

そう改めて思ってしまうような回だった。


9話冒頭は、過去回想から始まる。夏と弥生は仕事の取引相手として出会った。初対面でのふたりは、敬語で天気の話をしていた。
「もったいないなぁ。」当初、弥生の同僚からの夏の評価は、厳しいものだった。「見た目いいのに、喋るとぱっとしなくて? 」「曖昧な返事されると、不安になるよね。」「なんかちょっと惜しいですよね。」同僚ふたりが口々にそう言う中、弥生だけは何も言わなかった。
ふたりが次に出会ったのは、その日の休憩時間だった。弥生はコンビニに行くために外に出たが、その足が止まる。仕事を終えて別れたはずの夏が、会社の前にまだいたのだ。しかも夏は、泣いている子どもにどうしたらいいかわからないらしく、わたわたと声をかけられずにいた。
そんな夏を見かねて、弥生が声をかける。目線を合わせて話しかける弥生の対応はテキパキとしており、あれよあれよという間に弥生は子どもを連れて交番へ行った。夏はそんなふたりを見ていることしかできなかった。

でも、夏らしいと思うのはこの後だ。夏は弥生が会社に帰ってくるのを待ち、直接お礼を言ったのだ。どうせ取引相手、次に会う機会もあるだろうし、お礼はそのときでもいい。もっと言えば、弥生からしたら親切でもなかった当然の行いだったから、お礼を言われなくとも弥生自身気にも止めなかっただろう。それでも夏は待ち、頭を下げた。その真摯さに、弥生は惹かれ始める。
「真面目で一生懸命だね。」
取引相手としての夏が帰るのを見ながら、弥生の同僚が言う。それは仕事で顔合わせを重ねたからこそ改まった評価だった。「そうなのよ。」弥生の言葉尻が、肯定で上がる。
「気遣いできるし、聞こうとしていたこと先回りして資料準備してくれてたり。物腰柔らかいから細かいことも相談しやすいし、おごらず謙虚。なにより優しい。」弥生の表情は、恋している可愛らしいものだった。

ふたりの仕事相手としての関係は、もちろん仕事が終われば終わる。会社同士の関係がどうなったのかは描かれないが、ふたりはなにも進展せずに終わった。……かのように見えた。
弥生は夏のことを『ちょっと気になっている相手』と認めながらも、アプローチはしなかった。でも好意的に思っているのは、同僚からバレていたのだろう。そんな恋に臆病な弥生の背中を押したのは、夏だった。夏は、仕事で別れた後弥生に連絡する。「お仕事の後ってご予定ありますか?」「ないです。」弥生の足は小走りになり、夏はそんな弥生を笑顔で待っていた。

恋のはじまりだった。


そんな出会いから、何度かデートを重ねたであろうふたり。そのうちの1回も、9話の冒頭で描かれた。
ショッピングモールのような場所で待ち合わせしていた弥生は、夏が来るまでひとりでいる子どもと話していた。夏が来たタイミングでちょうど子どもの親も姿を現し、弥生は子どもに手を振って別れた。
「ホントに子ども好きだよね。」夏はそう言ったが、弥生の優しさは『好き』だけで語られるものではないと思った。「月岡くんは苦手だよね。」からかうように言う弥生に対し、夏は難しい顔をした。
「でもいつか親になるにはいいことかもね、子ども扱いしないってことでしょ? 」弥生は優しい。というかこの物語には優しい人ばかり出てくるが、弥生の優しさは全部を救おうとする優しさであった。そしてそれは、夏の不安をも救った。
「不安すぎる。」「楽しみだけどね。」「……うん、不安だけど、結構楽しみ。」ふたりの思い描く未来にはきっと、当然のようにお互いの姿があったのだろう。それだけに、『今』の弥生の硬い表情がつらい。

「弥生ちゃん! 」海と夏を待つ弥生の表情は、わかりやすく硬く暗かった。海は気付いていなかったが、割と鈍感な夏ですら気付くほど。でも不器用な夏はスマートに手を差し伸べることもできず、3人はそのままショッピングモールへ入っていく。
ショッピング中、弥生は店員に海の母と間違われた。少し前の弥生ならスマートに対処しただろうが、今の弥生は硬い笑顔のままかたまるだけで、海の言葉を待つことしかできなかった。それでも、海は嬉しかったようだけれど。
「帰る前にトイレ寄ろっか。」弥生の配慮によって手を繋いでトイレに行く途中も、海はずっと笑顔だった。
「弥生ちゃん、ママに見えるんだね! 」海は弥生と手を繋いで歩けることすら、嬉しかったのだろう。「私がほんとにママになったら嬉しい?」「うん!」海の返事は、痛いほどに眩しかった。「そっか。」弥生はその笑顔に微笑み返すでもなく、泣くでもなく、ただ静かにそう言った。

「海ちゃんとのことどうしたいの?」海と別れてから、夏は訊いた。……そ、そんなこと訊くなよ……! 「一緒にいるとき辛そうって言うか。……そうやってずっと無理に愛想笑いしてるし。」夏の方が、今にも泣きそうな顔だった。
「別れたい? ……別れたいの?」それを弥生に訊くなよ月岡夏!! 思わず胸ぐら掴みそうになった。弥生ちゃんが……弥生ちゃんがどんな思いで……! 不自然なほど表情が変わらない弥生に対し、視聴者の私の顔がひしゃげた。
「別れたくないよ。」背中を見せ、少し間を置き、それでも振り返って真剣な表情で弥生は答えた。そして仕返しとばかりに訊き返した。「別れたいの? 」「別れたくないよ」対して夏の返答は食い気味だった。
「私が母親になるのって、」「なってほしいよ。」落ち着け、月岡夏。お前は意外と猪突猛進だな。「じゃあいいんだよ、それで。」

弥生と夏は、決定的な違いがある。育ってきた家庭環境だ。
その歴史だけ見れば、両親が離婚して再婚し、血の繋がらない父と弟がいるという夏の方が、恐らくずっと両親と過ごしてきたであろう弥生より重く過酷に感じられるかもしれない。だが実際は逆だ。夏は愛されて育ち、弥生はいわゆる毒親育ちだった。
弥生の親については最低限しか語られないが、事ある毎に帰省している夏に対し、夏休みも夏とのデートしかなかったらしい弥生とでは、その違いはわかりやすい。
そして、だからこそ、夏は苦しみながらも誰かに相談して答えを導き出せるが、弥生はただ苦しんで自分の感情に溺れることしかできない。夏が「別れたいの? 」「海ちゃんのお母さんになってほしい」とまっすぐ言えるのに対し、弥生はその質問に自分として答えることすらできない。

弥生はちょっとずつ、自分の混沌とした感情に苦しみ、息ができなくなっていく。

たとえば夏休み、夏が海の家でのお泊まりを優先してデートできなかったこと。たとえば、行きたかったラーメン屋に夏を誘ったら海と3人で食事したいと言われたこと。
どちらも大したことではない。弥生にとって、自分より海が優先されたことはどうだっていいだろうし、むしろそんなときに海を優先するような夏だからこそ好きなんだろう。でも夏の選択によって、弥生にとって大切だった『夏とふたりの時間』が潰れていった。

不器用に仕事を言い訳にし、弥生に海と3人のご飯を断られた夏は、大和を呼んでファミレスで夕食を済ませた。大和と海は仲が良く、会うやいなや強くハグしていた。
と同時に、海は言う。トイレ。言いにくそうに言う海に対し、夏は心配そうに、でも無慈悲に言う。「ひとりで行ける? 」頷く海を『信用』し、夏と大和は海ひとりでトイレに行かせるわけだが……。いや子どもひとりでトイレに行かせるんじゃないよ!
弥生の言う通り、たしかに夏は海を子ども扱いしていない。ひとりの人間として信用している。……そう見ればいいのかもしれんけど、まだ小学生やぞ……! ましてや人懐っこい海ちゃんのこと、優しく声をかけられたら着いて行っちゃうかもしれないじゃん。
そう思うと、弥生は大人の責任が的確だった。トイレに行くというちょっと言いにくいことに先回りして「トイレ行こっか」とスマートに誘ったり、ひとりでいる子どもがいたら積極的に話しかけて親が来るまでひとりにしないようにしたり……。『子どもが好き』という言葉だけじゃおさまらない優しさと責任感。それが弥生だったんだよな……。

忙しいのは、たぶん嘘。あんまり3人で会いたくないみたいで。

弥生の違和感に、SOSに気付いた夏は、津野に相談した。何もせずに待つことも、無理やり問い詰めることもせず、周りから弥生の感情を推し量ろうとしたのだろう。
「弥生さんからなにか聞いてますか?」夏らしいなと思うのは、弥生が津野と交流を深めていたことに気付いていながら何も言わなかったんだなというところ。夏は自分の周りの人をみんな信用していて、だからこそ無責任になっちゃうんだろうな。「南雲さんからの手紙、呼んでいいのか悩んでましたけど。」対して津野の壁は、どこまでも高かった。
「電話、お友達?」海に訊かれても、津野のスタンスは変わらなかった。「お友達ではない。」
彼ははにかみながら答えていたが、第8話と第9話の間に放送されたスピンオフ、『恋のおしまい』を観れば、彼の思いは痛いほどわかってしまう。

『恋のおしまい』では、津野と水季の恋にならない両片想いが描かれる。この話が放映されるまで、私は『水季は津野の恋愛感情を知った上で付き合うことも振ることもしなかった』のだと思っていた。その認識が100%誤っていたわけではないが、水季は好意を利用していたというよりも、水季自身が津野に対して好意を抱いていたからこそ、恋愛感情が恋という形になることを避けた。海のために、海を1番に想い続けるために。

「2人きりになりたいなぁ。子ども、邪魔だなぁ。この子じゃなくて、この人の子どもが欲しいなぁって思うようになっちゃうの、怖いんですよ。」
「海がずっと1番って決めて産んだから。」

水季は津野への恋心を諦めたとき、そう言った。デートをして、ふたりの時間を楽しんで、感情に蓋をして恋を終わらせたからこそ、そんな過程があったからこそ、津野は『実の父親という理由があるから、海の父親になれる夏』に対して、傷を隠せないのだろう。

一方で、津野に話を聞いた夏は、弥生と話すために弥生の家を訪れる。「3人でいるの、辛いんでしょ?」世間話をしないと中々本題に切り出せない弥生と異なり、夏は案外猪突猛進タイプだからすぐに本題を切り出す。「だからそんなことないって。」弥生の強がりも、弥生に感情を全部明け渡してほしいと覚悟を決めた夏の前ではけんもほろろだった。
「俺もホントのこと言わないからだよね。」夏はつくづく、会話のテンポが下手だと思う。でもそれが彼の誠実さを物語ってもいる。「子どもがいるって知って、最初は面倒だと思った。このまま弥生さんとふたりで、いつか家族が増えたりしながら、今はまだふたりでいたいと思っていたから。」話し合って恋を終わらせた津野と水季に対し、着実に恋をしてきたふたりは話し合わずとも『家族になる』ビジョンがあった。家族になるなら弥生だと、信じて疑わなかった。
「でも今、海ちゃんもすごく大切で、弥生さんが母親になってくれたら嬉しいし、そうなったら楽だと思った。ひとりで親になるの不安だったから。」だからこそ、面と向かって対話することがなかったんだと思う。弥生の『本質を避けて場の空気のために穏やかな話題を選ぶ』特質と、『相手の好きな話に合わせる』夏の特質は綺麗にマッチしていた。その中でお互いに「この人と家族になりたい、なるんだろうなぁ」という共通認識が生まれた。この先なにもなければそのまま家族になれたんだろうけれど、海の存在を知った時点でそれは叶わなくなった。それらしいことを言うならば、夏は海の父親になると決める『前に』弥生と相談するべきだった。でも自分の感情すら上手く発露できない夏が、それをすることは難しかったであろうこともわかる。
「辛そうなの、少し前から感じてたけど、無視した。3人でいたかったから。なのに無意識に無神経に、弥生さんの前でも水季の話ばっかりして。気持ち尊重するなんて口だけで、自分の思いどおりにしようとしてた、甘えてた。」結局、夏は弥生に甘えていたのだ。でも同時に、視聴者も弥生に甘えていたことに気付く。弥生の優しさを頼っていた、弥生が責任感と恋愛感情に飲み込まれて、夏の理想通りに3人親子になってくれることを、望んでいた。

「ちょっと、待ってもらってもいい? 」夏に押され、弥生は微笑みながら感情を整理して言葉にする。「今は本音というか、言えてないことがありすぎてまとまらない。結論もまだ出せてない。」
つらい。だから自分がどうしたいかがわからない。
弥生は毒親育ちだ。きっと何度も、感情を明け渡すたびに否定されてきたのだろう。だから彼女は整理してからじゃないと感情を渡せない、そんな思慮深さを身につけてしまった。
子どもの頃からずっと大人であることを強いられてきたであろう弥生に、夏はいつもように優しく相槌を打つ。「手紙読んだ? 水季の。」「まだ。」夏の言い方は、寄り添う人の穏やかな声色だった。
「わかんないけど、母親になる人とかじゃなくて、俺と一緒に親になるか悩んでくれた人にあてたものだと思うから。」だから、弥生さんが読んで。
夏も津野も、水季を知っている。ふたりが『読んだ方がいい』と言うなら、読んだ方がいいんだろう。でもそこに、ちらりとした嫉妬が覗いてしまうことは、弥生でも止められない。
「わかった。」なんとか覚悟を決めた弥生に、夏は残酷な言葉を渡した。

俺は別れたくない。3人でいたい。

もっと早く言えよ。そう思ってしまった。

ひとりになってから、弥生は堕ろした子どものエコー写真を入れた棚を開ける。そこには水季からの手紙も入っており、弥生はなんとかそれを手に取った。
「はじめまして。面倒なことに巻き込んでしまってごめんなさい。」水季から弥生に宛てた手紙は、謝罪から始まっていた。「はっきりしない夏くん、まだ幼い海、短気な母、気の抜けた父と、厄介な人達に挟まれて、それはそれは窮屈だったと思います。」敬語ではあるが、水季の口調は気心の知れた友人に対するもののようですらあった。
「海を妊娠しているとわかったとき、最初は中絶するつもりでした。相手のことを考えすぎたせいです。でも、珍しく他人の言葉に影響され、自分が幸せだと思える道を選ぶことにしました。

夏くんではなく、海を選びました。」

ここで、ひとりで階段を上り帰宅する夏と、ふたりで手を繋いで階段を上る水季と海が映る。美しい対比だった。
「そのおかげで、海を産んで、一緒に過ごすことができた。海を見るたび、話すたび、思うたびに正しい選択だったと思えています。」水季の文体から浮かび上がる母娘は、幸せそうに満面の笑みを浮かべていた。
「たぶん人より短いから、幸せな人生だったというのはちょっと悔しいし、他人にあの子は幸せだったと勝手に想像されるのはもっと嫌です。でも海と過ごした時間が幸せだったことは、私だけが胸を張って言える事実です。
水季の海への並々ならぬ愛情を目の当たりにした後、弥生に以前自分がノートに綴った言葉が、返ってくる。
「誰も傷つけない選択なんてきっとありません。だからと言って、自分が犠牲になるのが正解とも限りません。他人に優しくなりすぎず、物分りのいい人間を演じず、ちょっとずるをしてでも、自分で決めてください。どちらを選択しても、それはあなたの幸せのためです。」それは、マイペースな水季が珍しく他人に影響された、あの日の弥生の言葉だった。お互いにそのことは知らないのに、その言葉が循環して弥生に戻ってきた。弥生の中にある言葉だったのに、水季から言われることで、弥生の中で重く響いたのだ。

海と夏くんの幸せと同じくらい、あなたの幸せを願っています。


水季は身勝手だ。夏に言わずに産んで、自分の死期を悟ったときも結局夏には言わず、それでいて亡くなった後には知らされるように海に家まで教えていた。
知らなかった責任、知る責任、生きている責任。このドラマでは夏の抱えた『責任』にばかり焦点が当たるが、個人的には水季にも『知らせなかった責任』があると思う。だれもそれを言及しないだけで。
そしてそれは津野も同じだった。病室で夏と弥生(夏の恋人)に手紙を書く水季に、津野は言う。「その人いたせいで会うのやめたんでしょ? 」水季は身勝手で無責任だ。でもそれは、彼女が亡くなってしまったから言えること。亡くなってしまったら責任も背負い切れなくなる。それに彼女は少なくとも生きている間は、『海への愛情を尽くす』という意味での責任は果たしてきた。
「せいっていうことはないです、この人何もしてないし。私が勝手に会わせないって決めたんです。」水季の責任は、津野に対する責任もあったと思う。恋を終わらせた責任。そして海を混乱させない責任も、母としての身勝手さもあった。『どうせ死ぬなら、最後まで海の母でありたい。死ぬ直前に夏と会わせて混乱するくらいなら、母としての愛情を一身に感じてほしい』。身勝手だけれど、水季らしい愛し方だとも思う。

「両親にも海にも、津野さんにも書きません。今会える人には書きません。残すものがないと、できるだけ直接伝えようって思えるし、限界ギリギリまで生きられるような気がするから。」そんな水季の愛し方に、津野も振り回されてきた。でもそんな水季だからこそ、恋が終わっても愛は終わらせられなかった。
「じゃあ、そうして。」津野は少しでも長く水季に生きてほしかった。津野だけじゃない、あのとき水季の周りにいた人みんながそれを願っていて、彼女を喪った悲しみに打ちひしがれているからこそ、彼女の責任には言及できないのだろう。それは絶対に責めていいことではないし、改めて死は残酷で無情だと思う。
「夏くんとも夏くんの恋人とも、もし会うことあったら、仲良くしてくださいね。」水季は明るく、愛に溢れた笑顔で笑って言った。


弥生が水季の手紙を読んでから、どれくらい経った頃だろう。ある雨の日、弥生は夏に会いに来た。
「雨続いてやだね、……天気の話とかして。」弥生は世間話に当たり障りない天気の話を選ぶ。それは夏との恋を始めた頃をなぞっているようで、いじらしかった。
弥生は夏に、海に渡したくて作ったり買ったりしたものを渡す。手製のポーチ、出版関係の友だちから聞いたドリルなど、イルカのぬいぐるみ。どれもこれも、海を考えて海のために選んだもので、それはたしかに愛だった。
「ありがとう、海ちゃんのこと考えてくれて。」夏の言葉は、父のものだった。「どういたしまして。」イルカのぬいぐるみを手にはめながら、真面目な話に入ることに緊張しつつも、弥生は重い口を開いた。「もうちょっと待った方がいい? 」という夏の問いに対しても、首を横に振った。

誰かの役に立ててるって思いたかったの。私がいないとダメだなってことあると、やれやれって思いながら安心した。」毒親育ちらしい、自尊心の満たし方が垣間見えた。
「最初は居心地よかった。3人でいて楽しいし、なりたかった母親にもなれる。3人でいてなんの不満もなかった。」弥生の言葉に、夏の結論を急ぐ。「だったら……。」
「3人じゃないって気付いて。」夏の表情がかたまった。「ずーっとどこかに水季さんがいるの。それ感じて奪い取ったみたいな気持ちにもなるし、水季さんのこと知らない自分だけが、仲間はずれみたいな疎外感もあるし。……ホントおっしゃる通りで。3人でいるの、だんだんつらくなった。」弥生はやっぱり、真剣な会話に、感情をさらけ出すような会話に、慣れていないんだろう。結論が後手後手に回り、夏はその度に気が急いた。「でも……。」
それを見透かして、弥生は夏と同じ言葉を紡ぐ。「でも……、月岡くんのこと好きだしなぁ。海ちゃんかわいいな。お母さんになりたいな。」どれも弥生の中で、本当の感情だった。「別れたいとかじゃない。一緒にいたい。でもいると苦しい。でも頼られると嬉しい。」弥生の感情の伝え方は、本当の気持ちがぐちゃぐちゃに入り交じっていた。わかりやすいとは言えなくともたしかな感情がそこにはあって、彼女がもう限界なんだと痛いほど伝わる言葉だった。
「お母さんに間違えられて、うれしくて苦しかった。お母さんさせてもらえるのに、水季さんにはなれないから、嫉妬してたの。私なんかより、ずっと大変な思いしてきたってわかってるのに、羨ましくて仕方ない。月岡くんが水季って言うたびに、海ちゃんがママって言うたびに、羨ましいとか悔しいとかちょっとずつ溜まって言った。」

2人のことは好きだけど、2人といると、自分が嫌いになる。


人に恋をするときって、「この人といると自分が好きになれる」もあると思う。ましてや弥生は満たされた家庭環境じゃなかったから、それが顕著だったんだろう。だからこそ、夏といて自分が嫌いになるのが嫌だった。別れたくないからこそ、家族になりたかったからこそ、別れたくて、家族になることを諦めた。
「3人でいたいって言ってくれて嬉しいんだけど、嬉しいのに、

やっぱり私は……月岡くんとふたりでいたかった。」

泣き腫らした目で、切なく訴える弥生の表情は痛いほど夏に縋っていて。夏の優しさにたくさん救われたからこそ、夏とのなんでもない時間は弥生にとって何にも変え難いほど大切だったのだ。

咄嗟に手で涙を拭こうとした弥生は、拭いてからその手に、海に贈るイルカのぬいぐるみがはめられていることに気付く。「ごめん、海ちゃんにあげるやつ……。」海を思って咄嗟に謝る弥生に対し、夏はイルカのぬいぐるみを外すと、弥生の手をティッシュで拭いた。海に渡すイルカじゃなくて、弥生の手を優先して拭いた。

夏は、弥生の言葉を待った。「あとは? あとは言いたいこと……。」涙を拭いた弥生の表情は、覚悟が決まっていた。「海ちゃんのお母さんにはならない。」夏は苦しみながらも、いつものように相槌を打った。「うん。」
「月岡くんとは、別れたい。」でもこの言葉には、相槌が打てなかった。
「そっちは? 言いたいこと、あとは? 私が頑張ったせいで頑張らせちゃったでしょ? ちゃんと言っていいよ。」弥生はどこまでもお姉さん気質で、自分のことより夏を優先した。それは会話からも読み取れて、そんな彼女が人生においては自分を選んだことに、切ないながらも晴れやかな気持ちになってしまった。

「3人が無理なら、どちらか選ばなきゃいけないなら、海ちゃんを選ぶ。」

夏の言葉に、弥生も晴れやかにうなずく。あぁ、こういうときに海を選ぶ人だからこそ、弥生は月岡夏という人を好きになったんだな。なぜかすんなりと、そう理解した。
「私もだよ。」弥生が夏に涙を見せたのは、このときが最後だった。もしかしたら、最初で最後だったのかもしれない。
好きな人と離れても自分が納得できる人生と、辛い気持ちのままふたりのために生きる人生。どっちにするか考えて、自分を選んだ。ふたりのこと選ばなかった。だから同じ。」

「夏くんじゃなくて、海を選びました。」
「3人が無理なら、弥生さんが海ちゃんかどちらかを選ばなきゃいけないなら、海ちゃんを選ぶ。」
「私も、自分とふたりのことを考えて、自分を選んだ。ふたりのことを選ばなかった。」
全部全部、本質は同じだった。人生はいつだって選択の連続で、でもそれは責任とは切り離せないもので、そして愛情と責任も切り離せない。


「送ってく。」話を終えてひとりで帰ろうとする弥生に、夏は言った。彼は海に出会ってから、気持ちを素直に言うようになったのだと思う。弥生はその変化に驚きながらも、柔らかく頷いた。

「雨やんだね。」口火を切ったのは、弥生。そしてやっぱり選んだのは、天気の話だった。不器用に話題を提供する弥生の手を、夏の大きな手が握る。弥生は戸惑うが、手を離すことはできなかった。
「今日まではいい? 」月岡夏、本当にずるい男だよ。「今日終わったら、それで終わりにするから。それまで海ちゃんのことも忘れて……今日、終わるまで。」夏のしたことは、思い出作りに過ぎない。むしろ最後にそんな思い出を作るのは、残酷かもしれない。それでも夏は弥生に恋をしていて、それと簡単にさよならできるほど器用でもなかった。
「うん。」弥生の言葉によって、ふたりの手は恋人繋ぎに繋ぎ直される。対して、ふたりの口調は出会った頃に戻るかのように敬語へと形を変えた。
「雨多くて嫌ですね、蒸し蒸しして。」「はい。」
「最近お仕事はどうですか? 」「営業なんですけど、はっきり話せってよく怒られます。」
「へぇ〜。」「向いていないんですかね。」
「私は、月岡さんとお仕事できて、よかったですよ。」
出会った頃をなぞるようないじらしいふたりの会話は、徐々に形を変えて仕事を終えたふたりになる。肩の力も抜けてきたのか、夏も弥生も素直に感情を吐露していた。

駅のホームに着く頃には、ふたりとも砕けた口調で雑談に興じていた。ホームのベンチに並んで座り、恋人らしく指を絡めたまま、恋人らしく他愛もない話に屈託なく笑っていた。
ふと、話の中で弥生がスマホを取り出したとき、既に0時を超えていたことに気付く。「……あっ、もう『今日』終わってたね。」気まずそうにはにかむ弥生の手を握り直し、夏は珍しくきっぱりと言い切った。
「終電あるうちは今日だよね。」愛してるとか好きとかは言えないけれど、あれはたしかに月岡夏の『I love you』だった。「うん。」今日の終電までだから。

「なんでもない話するの。」「ね、久しぶり。」なんでもない話は、恋人の象徴かもしれない。夏も弥生も、大切な話は相談できず、だからと言って世間の恋人らしくなんでもない話もできなかった。じゃあなんの話をしていたのかと言うと、それはやっぱり海の話で。海が現れてからのふたりは、たしかに歪な関係だったのだろう。
「手汗すごいから、手離して? 」弥生がそう言っても、夏は手を離さなかった。駄々をこねる子どものようなその意地に、弥生は眦を垂れさせた。そして弥生はそれを機に、『なんでもない話』を終わらせる。それは弥生なりの区切りだった。

「水季さんの手紙読んで、別れるって決めたの。」突如、夏はなんとも言えない悲しそうな顔をする。「『幸せになれる方を自分で選んでね』って。あんなに嫉妬してたのに、水季さんのこと好きになっちゃった。だから海ちゃんのことも好きなままでいれる。……読んでよかった。」
SNSでは、『水季の手紙がふたりを別れさせる決定打になったのだから、あれは呪いだ』という意見も散見された。たしかに呪いかもしれない。でもあれはマイペースな水季じゃないとかけられない、『幸せにするための呪い』だ。私はそう思う。
「次の、乗ろうかな。」弥生の視線が、次に来る電車へと注がれる。「終電まだあるし……。」「海ちゃんには、私から話させて。お別れしたよって。」まだ恋人の時間を終わらせたくない夏の言葉を、弥生は何度も遮った。
「もうちょっと話そ……。」「何かあったら頼って。もうふたりと関わりたくないとか、そういうのはないから。」弥生はやっぱり、どこまでも優しかった。「海ちゃんのママができたら、それが一番だけどね。」
『恋のおしまい』で、津野と水季が恋愛感情に正直になって恋人関係に足を踏み入れようとした瞬間があった。でもならなかった。そしてそのとき、水季は言った。「津野さんを諦めたんですよ? もう恋とかないです」あのときの水季に似た感情が夏の中にもきっとあって、だからこそ夏の目には涙が溢れた。
「俺、やっぱり弥生さんのこと……! 」「頑張れ。」弥生はやっぱり、夏の言葉を遮った。そして絡まれた手をほどき、離した。その手は夏の背中をさすり、でも決して涙は見せず、はっきりとエールを送った。「頑張れパパ、応援してる。」

夏が夏なりの『I love you』を言ったなら、弥生は弥生なりの『さようなら』を言った。


「ちょっとだけお母さんできたの、ホントにうれしかった。ホントに本音。」とめどなく涙を流す夏に対し、弥生は笑顔を見せた。そしてそこで残酷に、主題歌の『新しい恋人達に』が流れる。
ここで気付く。この曲は「恋人としての道を諦めて自分の人生を生きる『新しい人生を生きるかつて恋人だった人達に』」という意味もあったんだなと。

弥生は笑顔のまま涙を見せず来た電車に乗り込み、背中を見せるように座った。最後まで強かった。絶対夏に涙は見せないという彼女の矜恃が、そこにはあった。
対して夏は、弥生の背中から目を離せず、また涙も止められなかった。泣きじゃくる夏の背中を、弥生のエールと主題歌が背中を押す。ベンチから立ち上がり、ホームを後にする月岡夏の姿は、「弥生さんに失恋した、弥生さんへの恋を諦めた月岡夏」から、「海ちゃんの父親の月岡夏」に変わった。『新しい恋人達に』の「誰の人生だ」が夏を鼓舞したのだ。今回のためにこの曲は作られたんじゃないかと思うくらい、この曲は夏の背中を強く押していた。

「ふたりで暮らしたいと思っています。1番大切にします。他の何よりも絶対優先します。頑張ります。」父親として海を抱きしめた後、夏は朱音に向かって力強く宣言した。その表情はこれまでの夏とは違い、たしかに父親のものだった。

夏も弥生も、たしかに相思相愛だった。夏の目はあまりにも一途に弥生を愛していたし、弥生も『月岡くんとふたりでいたかった』と漏らすほど愛していた。でもやっぱり、愛と責任は結び付きが深い。ましてや恋って「この人といたい」という他者の行動を決めている感情だから、恋を優先したら自分の意思って迷子になるのかもしれない。
そして同時に、毒親育ちとして弥生さんのことを想って観ると、やっぱり毒親育ちだからこそ家族になるまでの過程もゆっくりが良かったていうのはあると思ってしまう。弥生さんが家族というものに憧れを抱けるくらい幸せで満たされた幼少期を送っていたら、また違ったのかもなと感じた。
何はともあれ、結局夏は、海を選んだ。ふたりで暮らすと腹も括った。でも子どもの意思を尊重する夏にとって、次回障壁が立ちはだかる。
「海、転校したくない! ママが居なくなっていろんなことが変わったのに、まだ海も変えなきゃだめなの? 」『ふたりで暮らす』って、海ちゃんからしたら水季との暮らしとリンクするんだよな……。大和も言っていたけど、親とふたりの暮らしは「この人がいなくなったら終わり」と感じさせてしまう。夏も親としての覚悟はあるけど、海の心には深い傷がある。それを看過することはできない。
次回予告から見るに、弥生との関係が完結するわけでもないみたいだし、夏が『責任』と正面から対峙したときどんな選択をするのか、目が離せないと改めて思った。


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