下心ではなく、真心で生きる 愛を目的にすることが大事だね
よく下心が見え見えの人っているよね。
表向きはとても丁寧で礼儀正しいんだけれども、心の中には自分の願望があって、それを相手に押し付けたくてやっているのがミエミエなんだよね。
結構年齢が上がっていくと、その傾向が強くなるみたいだね。
会社でも仕事を振るために、スイーツを買ってきたり、お世辞を言ったり、心にもないことをすると、逆に嫌がられるからね。
家族でも、お年寄りが孫のためと言って一生懸命に何かするんだけれども、心の中には「もっと自分たちの世話をしろ」という要求があって、お嫁さんなんかはドン引きになったりするからね。
やっぱり要求ばかりする人というのは、どうしても人は離れていくよ。
それでどうしたらいいかなんだけれども、論語にその対策が書いてあったよ。
それは「知者は仁を用い、仁者は仁に安んじる」という言葉だよ。
知者というのは頭の回転が早くて、計算高い人ということだろうね。
こういう人は、自分の願望を実現するために熱心なんだけれども、それを隠すために大義名分や「多くの人々のため」ということを言うんだけれども、それが見え透いているんだろうね。
仁と言うのは、愛の心や愛の行為だけれども、この愛が、知者の場合は手段になってしまっているんだね。
愛というのは崇高で気高いものだから、本当は目的でなければいけないわけだよ。
ところがこれを手段にしてしまうと、薄汚れたものになっていくから、いけないと言ってるんだろうね。
人間も同じだと思うよ。
一人一人が尊いし、目的そのものなんだよね。
だから人間を手段としてこき使ったり、物のように扱うというのがいけないということだよ。
これは中国共産党にしっかりと理解してもらいたいものだよ。
それから仁に安んじるという事は、親切や思いやりの行為をしたら、その時点で終わりになるということだろうね。
やった後で「〇〇してやっただろう」みたいに、見返りを要求したら、愛は死ぬと言うことだろうね。
西洋でも、「愛は後悔しない」という言葉があるけれども、真心から愛を与えたら、後で裏切られたとしても、与えた愛のことを後悔しないのが、愛の証明だということだろうね。
やっぱり愛は永遠であり、究極の目的であり、至高の存在そのものだということを、孔子様はよく理解していたんだろうね。
愛は与えることそのものに素晴らしさがあるんだということを、忘れてはいけないね。
それが人間としての理想であり、あるべき姿だと言うことだろうね。
やっぱり、見返りを求めたときに、愛は死ぬと言うのは、洋の東西を問わず、真理なんだろうね。