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過ぎたるは、なお及ばざるがごとし 自己成長の話だよ

自分を成長させたいと願っている人はたくさんいるよね。それは生きている意味そのものだしね。

伝統的に成長願望を持った日本人にとって一番のテキストになったのが論語ではないかと思うんだよ。

孔子様という人は、弟子たちをどうやったら、もっと精神的に高められるかを考え抜いた、世界最高の教育者の1人だからね。

だから、論語の中には、自己成長のヒントがたくさんあるし、それはいまだに有益なものが多いと思うんだよ。

そこで、過ぎたるはなお及ばざるがごとしと言うのも、実に考えさせられる話だよ。

これはよく読むと、人物評価の話なんだね。

簡単に現代語訳をちょっとまず紹介してみるよ。

筆頭弟子の子貢がおたずねした。
「子張と子夏とどちらがまさっていますか」
先生がこたえられた。
「子張はやり過ぎで、子夏は足りない」
子貢が念を押した。
「それなら子張のほうがすぐれているというのですね」
先生はこたえられた。
「やり過ぎでも足りないでも、適度を失していることでは同じだよ」

改めて読んでみると、子張は性格的には消極的で指示待ちの傾向があるみたいだね。

一方、子夏は自己顕示欲が強くて、目立ったことをやりすぎの人間のようだね。

結局どちらもダメなんだけれども、これをよく考えてみることが大事だと思うんだよ。

古典の良いところは、解釈の余地があって、自分であれこれと考える余白というかスペースがある所だよね。

これが現代の実務的なノウハウ本とはちょっと違ったところだと思うよ。

結局、ダメ出しをされた2人の弟子は、人の評価を気にしすぎているというところが共通していると思えるんだよ。

人の目を気にしすぎて、消極的で、自己保身に陥っている人物と、人の評価が欲しくて、ついつい過剰にやってしまう人間と、どちらも人の評価を気にしすぎている両極端の類型だと解釈できると思うんだね。

そこで孔子様がいいと思うのは、自己評価を基準とするのではなくて、求められていることを正確にやり遂げるタイプの人間じゃないかと思うんだよ。

昔の時代なら、君子様の要望をしっかりと汲み取って、過不足なくなくやる人間だろうし、現在なら、顧客ニーズというか、お客様の立場に立って正確にニーズを満たそうとする顧客マインドかもしれないね。

そこで求められていることが何なのかを考えに考えるところが、人間の成長を促すと言うことではあろうし、これが徳ということなのかもしれないね。

徳と言うのは、矛盾するものを両立させることだと思う言われてるからね。

この両極端の2人の弟子の消極性と積極性をミックスしたところに徳というものが現れて、それが人間の成長の正体ということなのかもしれないよ。

やっぱりどうやったら人に認めて認められてもらうかと言うことを考えているうちは、人間的な成長は望めないのかもしれないね。

孔子様は人間には天命というものがあると言っておられるけれども、この天命を遂行しようとするのが誠の心だろうし、それは人から見て認めてもらうことではなくて、自分の内なる運命を全うしようとすることだろうね。

人の幸福を目的と目的とすれば、人間の成長に限りはないと言うけれども、それをどのような形で取り組むか、自分に問いかけるところから、天命が始まるし、それが人間の限りない成長の始まりということなんだろうね。

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