人よりも少し重い責任を背負う リーダーの条件だよね
今日はいよいよアメリカ大統領選挙の投票日だけれども、リーダーの条件と言うものを改めて考えるチャンスでもあるよね。
政治家と言われる人たちは、やっぱり「人よりも少し重い責任を負う」と言うところがあると思うんだよ。
会社で言えば、管理職の人たちだし、学校で言えば、学級委員長とか、スポーツクラブのキャプテンのような人だよね。
こういう人たちは、社会の中でどうしても生まれてくる問題を解決することが求められているし、嫌なことを進んで引き受けると言うところから尊敬されるところもあるよね。
こうしたリーダーになる人は、困難に立ち立ち向かうことを期待されているから、カマラハリスさんが、初めて黒人の女性で大統領になるかどうかで投票すると言うのはやや的外れではあるよ。
やっぱり最初の勢いが落ちてきたのも、アメリカのリーダーとして本当にふさわしいのかどうか、世界のリーダーとしてふさわしいのかと言う視点からも厳しくチェックされているんだろうね。
トランプさんを人格的に非難する人も多いけれども、億万長者だったこの人が大統領選に出てくるのは、やはりアメリカ社会を良くしたいと言う責任感の表れである事はやっぱり否定できないよ。
自民党が今回は惨敗したけれども、立て続けに起きたスキャンダルなんかもう負けた原因だと思うよ。
世襲議員同士の不倫スキャンダルがあったり、家庭を持っているのに、男性とラブホテルに行ったりするようなところを報道されてしまえば、やっぱり自分の快楽を優先している人たちだとレッテルを貼られても仕方ないからね。
そういう意味ではリーダーと言うのは、普通の人がやっている事でも、やってはいけないんだと言う事は大事だよ。
お坊さんや牧師さんも同じだと思うよ。
この人たちには戒律があって、やっぱり普通にパチンコをしたり、ヘビースモーカーだったりしたらおかしいからね。
どこかで精神性を追求していると言うことが必要だよ。
その意味では「人より重い責任を負う」と言うことを自ら進んでやると言う人は、精神性を追求しているとも言えるだろうね。
やっぱりリーダーになることで、人間的に成長するし、人格が高まったり、精神的に一段とく優れた人間になるからこそ、人間はリーダーを目指して重い責任を進んでおうと言うところもあるよね。
政治家なんかも、本当は選挙で選べない面もあると思うよ。やっぱり人気投票では決められない部分があるんじゃないのかね。
それはいわゆる道徳の部分でもあるし、多くの人が賛成していても、大局的に見てダメだと思えば、それに反対してやり抜く決意は必要だよね。
1960年代の安保闘争なんかも、当時の岸首相は反対して、日米同盟を堅持したけれども、これは結果的には良かったよね。
もし日米同盟を破棄していたら、日本は中国や北朝鮮と同じような全体主義国家になって、多くの人たちが刑務所に入れられたり、殺されたりした可能性は高いと思うよ。
だからたとえその時に非難されたとしても、自ら進んで重い責任を負って、それを果たした人は、長く人の記憶に残るんじゃないのかな。
聖徳太子も1300年以上前の人だけれども、いまだにお札になっているわけだからね。
この人は仏教を導入するために、反対した物部氏を攻撃した戦いの人でもあるからね。
それを考えると、嫌々ながら責任を負うと言う言うのでは不十分だよね。
やはり積極的な未来ビジョンがあって、その組織を率いていくと言うところが責任の中には含まれるね。
やっぱりリーダーになると、不平不満は言えないし、孤独だよね。
だけど、一人ひとりの自覚が高まって、多くの人が少しでも重い責任を負ってみようと思う社会は、やっぱり良い社会だと思うよ。
そういう人が増えて、日本がもう一度誇り高き国になるように願いたいものだね。