西住戦車隊長の歌

西住 小次郎陸軍歩兵大尉は陸軍で公式に「軍神」となった第一号である。

『西住戦車隊長の歌』は北原白秋が作詞を、飯田信夫が作曲をそれぞれ担当した。

支那事変で八九式戦車の戦車長として活躍し、下車偵察中に戦死した。

徐州会戦中の1938年(昭和13年)5月17日午後6時半ごろ、宿県南方の黄大庄付近に於いて、高粱畑をかき分け前進していた一行は、戦車の進路前方にクリークを発見した。

西住は、戦車の渡渉可能な場所を探しに下車し単身斥候を行った。

そして指揮官旗を水面に突き刺して地点を確認し、高橋中隊長に報告に赴こうとした直後、背後から対岸の中国兵に狙撃された。

銃弾は西住の右太腿と懐中時計を貫通し左大腿部の動脈を切断した。

西住は出血多量のために意識朦朧となりながらも、高松上等兵に高橋中隊長へクリークの渡渉可能地点を伝達するよう命じた。

部下たちによって自身の戦車の中へと戻された西住は、衛生隊軍医の服部(階級不明)から応急措置を受け止血したが、すでに手遅れであった。

自らの最期を悟った西住は、高松ら部下と高橋中隊長、そして内地の家族への別れの言葉を告げ、午後7時30分ごろ、「天皇陛下万歳」の言葉を最後に息を引き取った。

享年24。死後、陸軍歩兵大尉に特進した。

西住と同じ戦車第1連隊の戦車将校だった作家司馬遼太郎は、戦後『軍神・西住戦車長』というエッセイを発表し、戦車学校では「一度も西住戦車長の話をきいたことがなかった」、戦車第1連隊でも「逸話さえもつたわっておらず、その名を話題にする者もなかった」と述懐している。
また、「西住小次郎が篤実で有能な下級将校であったことは間違いない」と認めつつ、「この程度に有能で篤実な下級将校は、その当時も、それ以後の大東亜戦争にも、いくらでもいた」とし、それにも関わらず西住が軍神になりえた理由を「彼が戦車に乗っていたからである」「軍神を作って壮大な機甲兵団があるかのごとき宣伝をする必要があったのだ」と推察している。

下車偵察での戦死は戦車兵であれば当たり前のことなのである。

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