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2024年春 チェチェン独立派の国際会議参加とウクライナ訪問報告 チェチェン連絡会議 谷川ひとみ


渡航ルート
日本―上海―ポーランド(ワルシャワ)―ウクライナ(キーウ)
2月中ころから4月中ころまで約2か月の渡航となった。その中でウクライナに滞在したのは約1か月半だった。ウクライナへの渡航は5度目、最後に訪れたのはパンデミックが始まったまさにその時であり、全面侵攻以降初めての訪問となった。ウクライナでの主な訪問先は首都キーウ、東部ドネツク州、北部スームィである。
 
チェチェン代表団とウクライナの首都キーウへ
2月26日にワルシャワのイチケリア・オフィスに集まりチェチェン代表団とともにキーウへバスで向かった。
現在アフメド・ザカエフを中心とした「亡命チェチェン政府」は欧州各国で代表を選出し、オフィスを設置しているという。また欧州に加えて、アメリカ、日本などに領事がいる。2024年に入ってから、各国で強制移住から80年というテーマで会議や集会などを行ってきたという。そして、その最後にして最大の集会を、亡命政府の代表部があるキーウで行うことになったとのことだった。また、各国の亡命イチケリア政府代表らの代表部訪問という意義も兼ねていたようである。
チェチェン人以外には、私(日本人)、イギリス人、スロヴァキア人、アメリカ人、ロシア人二人がいた。ロシア人はイチケリア派の活動についての動画配信の担当者だった。なお、女性参加者はチェチェン人4人、私とロシア人の計6人だった。年齢層は多様だった。私が話した多くの人々は初めてのキーウ訪問であるということだった。
ポーランドとウクライナの国境は筆者が訪問した時点では検査が非常に厳しく通過には長時間を要した。グーグルマップで検索したルートでは10時間程度の道のりを、23時間かけて27日の午後にキーウに到着した。その日の夕食は亡命政府代表を務めるアフメド・ザカエフ、外務大臣イナル・シェリプらを加えて夕食会が行われた。
 
「チェチェンイングーシ強制移住80年、チェチェン戦争勃発30年、ウクライナ全面侵攻2年」集会
2月28日キーウの10月宮殿において「チェチェンイングーシ強制移住80年、チェチェン戦争勃発30年、ウクライナ全面侵攻2年」というテーマでウクライナ政府、チェチェン亡命政府が共催した集会が行われた。スピーチには、ウクライナの国会議員や、大統領府の代表、キーウ市長、ウクライナのユダヤ教のラビの代表など多くの人が参加していた。
私は、外相イナル・シェリプ氏より、チェチェン連絡会議の代表を兼ねてスピーチをしてほしい旨を伝えられていたので次のようにまとめた。
①   チェチェン連絡会議は1995年に寺沢潤世氏の活動をきっかけとして設立したこと、ロシアの侵略や人権侵害に反対活動、難民支援、最近では山岳連盟をテーマにしたシンポジウムを行っている。
②   私自身は組織の中でも若く、チェチェン戦争をリアルタイムでは知らない世代であること、本団体の一員であるジャーナリストの常岡浩介の本などを介して、チェチェンについて知ったことを述べた。その後様々な経緯を経て、約10年北コーカサスの歴史を中心に研究に取り組んでいることを説明した。私の研究テーマである山岳連盟を通して、北コーカサスの人々は連帯できること、またコーカサス人以外とも友好関係を結んだ歴史があることを知ったことを述べた。その上で、今目の前でこれまで自分が研究を通して見てきた、ウクライナの人々とコーカサス人が協力して自由のために戦うことが可能であることを目撃できて驚いていることを伝えた。
③   最後に、この会場に唯一のアジア人として立てていること、日本にイチケリアと連帯する人々がいるということを伝える機会を頂けたことをうれしく思っていると伝えた。その上で今ユーラシアが自由な空間となることを望んでいること、そのために一緒に働いていきましょう、という呼びかけで締めくくりとした。
以上のことを約10分のスピーチにまとめた。
 
会場は交流スペース、展示スペースに分かれていた。常に多くの人々がいた。この場は、ウクライナとチェチェン、および北コーカサスに関わる政治家やジャーナリストなどの国際交流はもちろんのこと、ウクライナで戦う亡命チェチェン政府以外のチェチェン人義勇兵たちの交流の場という役割もあったようである。後に、アフメド・ザカエフに話を聞いた時も、シェイフ・マンスール大隊、ジョハル・ドゥダーエフ大隊の兵士らも多く集まったことを非常に強調しており、ウクライナで戦う様々なチェチェン人の交流に努力していることがうかがわれた。
 
大会翌日は、キーウからバスで2時間ほどのジトーミルの街近くの村を訪問し、地元の方に牛を屠って「サダーカ(喜捨)」を行った。昼食もとり、欧州各国のチェチェン人代表団と亡命チェチェン政府の兵士たちのよりカジュアルな交流の場となった。食事は人数とスペースの関係もあり男女別となったが、女性側のスペースにもアフメド・ザカエフをはじめ様々な人々が出入りしくつろいだ空気だった。しかし、外は常に兵士が警備にあたっていた。
その翌日には、代表団と共にキーウのチェチェン・イチケリア政府代表部を訪問した。歴代のイチケリア代表や名将の写真が飾られていたが、イマラート・カフカスのドッカ・ウマーロフの写真もあったことが印象的だった。
 
現在、ウクライナにはいくつかのチェチェン系の部隊がある。有名なものでは2014年から活動を開始した、シェイフ・マンスール大隊、ジョハル・ドゥダーエフ大隊、そして2022年の全面侵攻以降から活動する亡命チェチェン政府の部隊である。シェイフ・マンスール大隊は完全な義勇兵という状態にあり、ジョハル・ドゥダーエフ大隊は領土防衛隊外国人部隊の一部になっているということだった。しかし、状況は流動的だという印象を受けた。亡命チェチェン政府の部隊はウクライナ軍の一部であり、亡命チェチェン政府の見解では、亡命チェチェン政府とウクライナは軍事的同盟関係を結んでいる状態であるという。
なお、外務大臣イナル・シェリプ氏に亡命政府に必要な援助を伺ったところ、ウクライナに対する軍事を中心とした物質的支援が自分たちの支援につながる、また将来独立国家になった際の国営放送の準備も兼ねて専門的な情報チャンネルを作るための援助(スポンサー)を必要としているということだった。当面はyoutubeなどのインターネットを中心とした情報チャンネルを充実させていきたいと考えているが、ここでは、チェチェンに限らず北コーカサス全体の問題を扱う内容にする予定だという。
シェイフ・マンスール大隊は完全なる義勇兵部隊らしく、ジョハル・ドゥダーエフ大隊は領土防衛隊の外国人部隊のようである。しかし、その編成は流動的であるようだった。また、それ以外にも義勇兵、ウクライナ正規軍にもチェチェン系部隊は存在するという。さらに、チェチェン系部隊に所属しない人々もおり、ウクライナで戦うチェチェン人の人数は軍事機密であることはもちろんだが、本人たちも分からないようだった。なお、イングーシ、ダゲスタンの部隊も小規模ながら存在するとのことだったが、あまり交流が無いように感じられた。
ウクライナにいるチェチェン人の間で大きな問題の一つとなっているのが、身分証明書についてであった。なお、外国人義勇兵には軍事身分書のようなものが発行されており、これが長期滞在ビザや武器携帯許可証など義勇兵として活動するために必要な様々な許可証を兼ねているようだった。この身分証明書の発行が迅速でないことは外国人義勇兵に共通する問題であるようだったが、チェチェン人の場合はさらに出身国ロシアの身分証明書が有効期限切れであることが多い。このため、有効な身分証明書が一切ない、という人が多く大きな問題となっているようだった。亡命政府はこの問題解決のためにウクライナ政府への働きかけ、また独自の身分証明書の発行などにも取り組んでいた。
滞在中、シェイフ・マンスール大隊所属のチェチェン人や、無所属の義勇兵、上記には上がらないウクライナ軍所属のチェチェン人部隊の隊長など多くの人と交流する機会があったが、全体的にウクライナ兵より士気は高いように感じられた。ウクライナ全体としては、事前に様々な報道などから情勢が悪いことは知っていたが、私が事前に考えていたよりも危機的であるように感じられた。
                         (2024年5月28日)
 チェチェン連絡会議サイトトップ https://note.com/chechenkaigi

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