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チェルノブイリ原発事故から35年

2日前に、この記事を投稿したが、その後、ひそかに行動した。

今日は、そのことを書きたいと思う。かなり長くなってしまった。


何をしたかというと、今年はチェルノブイリ原発事故から35年であることを少し前に気づいた。
ロシア連邦の場合は、0年と5年のときが節目で、お祝い事や記念事をすることが多い。
今年は35年ということは、チェルノブイリの英雄が眠る墓地でセレモニーがあるかもしれないと思った。

それで、ヤンデックスで調べたのが4月23日。

私の予想通り、26日はセレモニーがあることが分かった。しかし、開始が14時。そして、非常事態省と遺族が参加し、メディアの人は、何時に集合して、バスで向かうと書いてあった。


ということは、私のような一般人は参列できないのかな?と思って、夫に訊くと、「行けないと思うよ。」と言われた。


我が家から歩いて45分。45分歩いて行って、しかも、モスクワ州に入った途端歩道はなく、ひどい道になる。そんな思いをして、墓地まで行って、「入れません」と言われたら、ショックが大きい。


それでも、諦めきれない私は、30年の時のニュース映像などが残っていないかどうかを探した。何とかYouTubeを見つけ、見ていると、報道陣に見えない一般人のような人の姿を確認し、だめもとで出かけてみることにした。万が一、「入れない」と言われても、私の強い思いをロシア語に書いて出かけることにした。

1時に家を出発。
曇ったり晴れたりしているのだが、寒い。道行く人を見ると、毛糸の帽子をかぶっている人もいる。真冬の黒いダウンコートでも良かったかなあと思うくらいだった。
まずは、バスがタイミングよく来た時に乗れるように、トロイカカードにチャージ。そして、バス路線を歩いていくことにした。そのため、若干遠回り。結局、モスクワ市内でバスを見ることはなかった。

そして、いよいよモスクワ州に突入。歩道は相変わらずなく、舗装されていない。さらに、工事中ということで、埃だらけの道を歩く。大型トラックなどが通ると、接触しそうで怖かった。
墓地の入り口前のバス停に近づいたときにバスに越された。慌てて、走ったが、バスに乗れず。
その後、墓地の入り口の交差点には警察官が3人も立っている。バスで行けば、スムーズに入れたのかもしれないが、何か訊かれて入れなかったら嫌だなあと思いつつ、目を合わさずに進む。幸い、声をかけられなかった。
あとは、墓地まで1kmほど森の中を歩く。路上に車がたくさん止まっている。チェルノブイリ関連でなくても、普通にお墓参りに来ている人もいるだろうし、コロナで亡くなった人の埋葬もあるのかなと思った。これなら、一般人も案外すんなり入れそうだ。

墓地前に着くと、警官が複数人立っている。私は警官がいるところを避けて、墓石が展示されている合間を歩く。すると、何も声をかけられず、中に入れた。
墓地の入り口では、すでに行列ができている。何の行列か分からず並んだが、遺族の行列のような気がして、私は別の場所へ移動することにした。実際、遺族の行列だったから、あの場にずっといなくて良かったと思った。

お墓のどのあたりが線量が高いかを把握しているため、そのあたりにはなるべく近づかないようにした。
そして、あくまでも一般人なので、控えめに。
お祝い事だと、張り切って写真を撮る気になるが、今回はそんな気にならなかった。

そのため、遠目から楽団の写真。

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2時になり音楽が始まった。あまり写真を撮る気にならなかったが、それでも撮ろうと思い、行進してくる写真を控えめに撮った。

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ロシア正教の人たちも。その後ろは、ご遺族。

行進で運んできた花輪を置いたり、ロシア正教の人たちが儀式をしたりしていたが、その写真は撮る気にならなかった。

そんな時に、一瞬目があった人がいた。「日本人だ」とすぐに思った。どこかの記者だろう。私を踵から頭のてっぺんまでじろっと見た。ものすごく感じの悪い人だと思った。

その後、ロシア国歌の演奏があり、挨拶をした。中には声が小さい人もいて、聞こえにくく、私が立っていた近くの人たちは、ずっと何やら話しているしで、内容はほとんど分からなかった。

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このセレモニーの間もだんだん冷えてきて、冬のダウンコートの方が良かったくらいだ。4月のモスクワはやはりまだまだ寒い。

上の写真に写っている赤いリュックだが、医療器具が入っているようで、杖を突いてやっとこさ歩いているおばあちゃんがベンチに座ったら、すぐに寄ってきた。
しかし、このおばあちゃん、具合が悪くて座ったのではないとすぐ分かった。
ずっと泣いているのだ。その泣き方からして、息子さんを亡くした母親で、ご遺族だとすぐに分かった。それなのに、ぴったりはりつく学生。このお祖母ちゃんの娘さんとお孫さんだと思うが、少し嫌な顔をしていた。私の前にこの学生が割って入ったため、私も嫌だった。
このお祖母ちゃんを見ていたら、私も涙が出てきた。いったい息子さんは何歳だったのだろうか?若かったのだろうなあと思った。

セレモニーが終わる時もロシア国歌が流れ、1日に2回もロシア国歌を聴いた。

セレモニーが終わると、すぐに帰る人もいるだろうと思い、人が少なくなったところで、お墓の写真を撮ろうと思った。

先ほどの嫌な記者は元気な男性にインタビューをしている。あとで、記事を見たら、消火活動をして生き残った人にインタビューをしたようだ。この人1人にしかインタビューをしていなかった。私なら、ずっと泣いているおばあちゃんのことを書きたいなあと思った。そして、このお祖母ちゃんも近くにいる人に何やら話していた。おそらく、80代か90代のおばあちゃん。次の5年後に会えるかどうか分からない。だからこそ、このお祖母ちゃんのことを知った私は貴重な体験ができたと思っている。
なんだろう、こういう、人を見る目というのを最近よく感じる。

お墓に手を合わせたり、写真を撮ったりしているうちに、だんだん人が減ってきた。人が少なくなったところで、先ほどのおばあちゃんが息子さんのお墓に近づく。杖を突いて娘さんに支えてもらって、やっとこさ歩いているおばあちゃん。今日は、墓地への車の入場が制限されていたから、墓地内のこの場所まで歩いてくるのも本当に大変だったと思う。そして、お墓についたおばあちゃん。杖をはなして、しゃがむ。お墓は、顔の部分が彫刻になっている。その彫刻を泣きながら撫でている。ロシア正教の葬儀に参列したときに知ったが、葬儀の最後に額にキスをする。彫刻の額にキスをするお祖母ちゃん。私は遠くから見ていたが、涙が出てきた。顔を抱え込むようにして、泣いているおばあちゃん。一度、立ちあがって、誰かと話していたが、もう一度、しゃがんで顔を撫でる。このお祖母ちゃんにとっては、35年間の月日は止まったままで、事故を昨日のように思っているのだろうなあと思った。

おばあちゃんが立ち去ったのを確認して、私はお墓に近づいた。1960年生まれと書いてあったから、25歳で亡くなったことが分かった。まだまだ若い。その母親ということで、35年たった今でも悲しみにくれている。生きていれば、60歳。
今まで、チェルノブイリ関連の映画などもいろいろ見てきたが、このおばあちゃんに出会ってしまったら、映画はどうでもよくなってしまった。これが、チェルノブイリ原発事故の犠牲者の本当の姿だと思った。
私は墓前で手を合わせてきた。

おばあちゃんの姿を写真に撮る気にはならなかったが、偶然写り込んでいた1枚がある。黒いコートを着て毛糸の帽子をかぶっているのがそのおばあちゃんだ。娘さんに付き添われて、息子さんのお墓までやっとの思いで歩いているのだ。

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お墓の前で記念写真を撮っている人もいたが、このおばあちゃんを見たら、そんな気分には到底なれない。

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家に帰ってから、このおばあちゃんの息子さんについて調べた。

チェルノブイリ原発の職員だったようだ。4月26日は、夜勤で働いていた。
数学と理科が得意で、おばあちゃんにとっては、自慢の息子さんだったのだと思う。

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一番若くして亡くなった人は、23歳。

消防隊員だったようだ。

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そして、女性もいるのだが、この人は警察署の警備員だったようだ。

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初めて墓地を訪れた時に何だろうと思った場所があったが、今日のセレモニーの時に音楽で使っていて、始めからそういうことができるように作られていたことが分かった。

音楽隊が演奏していたところ。

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セレモニーが終わったあとは、ベルを外していたが、ここにつけて鳴らしていた。

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帰りもバスのタイミングが合わず、45分間歩いて帰ってきた。その間、1台もバスが通らなかったので、歩いて帰ってよかった。

私が参列したのは、最前線で戦った英雄たちのお墓だが、夫の故郷でもこの日、セレモニーが行われた。原発事故の消火のために、ソビエト全土にボランティアを呼びかけたようだ。そして、夫の故郷の人も参加し、亡くなった人がいて、毎年セレモニーをしているようだ。おそらく、他の都市でもセレモニーをしていると思う。


こんなにも長くなってしまい、最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。

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チェブラーシカ
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