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美術史を勉強してから東京国立近代美術館へ行ったら楽しすぎた件

ここ1か月、美術検定にむけて勉強している。美術史を勉強する前は、美術館は面白い企画があったら行く場所だった。昔から美術は結構好きで、子どもの頃は親にせがんでシュルレアリスム展に連れて行ってもらったし、大人になってからはアンディー・ウォーホル、マルセル・デュシャン、ダミアン・ハースト、ピエト・モンドリアン、ジョルジョ・デ・キリコと興味のあるアーティストの企画展へ足を運んだ。一方で、常設展はおまけ程度のイメージがあり、行ったところであまりピンとはこなかった。

歌川広重「阿波鳴門之風景」(東京国立博物館)

しかし、美術史の勉強をすると教科書で観た作品が都内で気軽に鑑賞できることに気づかされる。しかも常設展でだ。もちろん、美術館は膨大に保管している作品の一部を展示しているため、観られなかったりするのだが有名な作品とエンカウントする可能性は高い。

鍋島焼「色絵藤袴図皿」(東京国立博物館)
伊万里焼「色絵菊花散文菊形鉢」(東京国立博物館)
小林萬吾「門付」(東京国立博物館)

先日、東京国立博物館へ足を運び、鍋島焼と伊万里焼の違いを堪能し、千利休の相棒こと長次郎の茶器の漆黒に心奪われ、黒田清輝の弟子であり白馬会の最初の会員となった小林萬吾の「門付」の今にも動き出しそうな三味線男の姿に圧倒された。

翌日に動画配信で報告するぐらい楽しんだ中、福田平八郎の「雨」が東京国立近代美術館で鑑賞できることを知る。本作は、一見するとリアルな瓦にしか見えない絵だが、よく目を凝らすと雨粒の痕の存在に気づかされるユニークな一作。

先日、VTuberでありイラストレーターの《しぐれうい》さんが開催した個展「雨を手繰る」にて、レイヤーを意識させる加工を用いた「雨」の表現に惹き込まれたため、福田平八郎の作品を観たくなった。

東京国立近代美術館

ということで週末に東京国立近代美術館へ行ってきたのだが、残念ながら福田平八郎「雨」はなかった。一方で、意外な大物作品がたくさんあって驚かされた。中にはテキストや問題集で文字列としてしか知らないようなアーティストの作品も展示されており、勉強になった。メモもかねて軽く書いていく。


1.美術館はボールペン禁止?

ジョルジュ・ブラック「女のトルソ」(東京国立近代美術館)

東京国立博物館では何も言われなかったのだが、館内でメモを取っていたら学芸員から注意を受けた。どうやらボールペンはだめらしい。鉛筆を借りて、最初のフロアを回る。草間彌生の初期作を始めとする日本画だけでなく、西洋の有名な画家の作品も観られる。まず、パブロ・ピカソと並ぶキュビズムの代表ジョルジュ・ブラックの作品を見つけた。ブラックは元々フォービズム運動に参加していたのだが、セザンヌ回顧録とピカソの「アヴィニョンの娘たち」に衝撃を受け、キュビズムを探求するようになる。「女のトルソ」は長方形や台形、半円など幾何学的な要素からなる作品、人力でグリッジノイズをやってのけたような構図からは、女性の肉体のようなものが垣間見える。「トルソ」とは人間の五体を除いた部分を示す言葉ながら、女性の頭部らしきものや弦楽器のようなものが浮かび上がる。

このフロアでは構図を意識させるような作品が多数ある。たとえば、パウル・クレー「山の衝動」では、列車と横たわる人からホロコーストの面影が感じ取れる。また、ポール・セザンヌ「大きな花束」では机の上に鎮座する花瓶が主役であるが、静物画でありながら運動の気配を感じさせる要素として、ずり落ちそうな布の存在がある。静物画ではよく、ずり落ちそうな布が描かれている気がする。これは止まっているモノを捉える際、落ちるか否かの宙吊りのサスペンスとして布を配置することで画に運動をもたらす効果があるのではと思った。グスタフ・マーラーの死後、妻アルマと恋人関係になり、彼女の肖像を描いたオスカー・ココシュカからは「モナ・リザ」の笑み演出で知られるスフマートに近い技法が感じられる。

2.シュルレアリスム×抽象画大集合

日米抽象美術展(1955)再現ブース
ハンス・リヒター「色のオーケストレーション」

2024年は詩人のアンドレ・ブルトンが「シュルレアリスト革命」を発刊して100周年である。映画業界ではユーロスペースでにて「シュルレアリスム100年映画祭」が開催されルイス・ブニュエル『皆殺しの天使』やジェルメーヌ・デュラック『貝殻と僧侶』、ハンス・リヒター『金で買える夢』などが上映された。

ハンス・リヒター関連で東京国立近代美術館とつながっている。当館では日米抽象美術展(1955)再現ブースがある。そこで彼の「色のオーケストレーション」が観られるのである。赤、黄色、緑といった原色のオブジェクトが並んでいるだけなのだが、段々と大きくなっていく緑色の四角が全体にリズムをもたらしているのである。

ジョゼフ・アルバース「正方形賛歌」(東京国立近代美術館)
ヴァーチャル美術館も用意されていた

日米抽象美術展(1955)はアメリカ抽象美術家協会(AAA)に長谷川三郎が出品要請したことで誕生した展覧会。東京国立近代美術館では当時の空気感を再現するとともに、難解な抽象絵画の楽しみ方や歴史が学べるブースとなっていた。

ジョアン・ミロ「絵画詩(おお!あの人やっちゃったのね)」(東京国立近代美術館)

また、シュルレアリスム100周年ということで当館でも西洋、そして日本のシュルレアリスム作品をまとめて紹介している。ジョアン・ミロの作品もあり、《おなら》を表現したといわれる「絵画詩(おお!あの人やっちゃったのね)」を鑑賞した。垂直に向けられた波状が放屁を表現しているのだろうか?

美術検定の勉強を始めてから、美術館の説明を熟読するようにしているのだが、マックス・エルンストの説明の中に紙になどに絵の具を垂らして別の紙に押し付ける「デカルコマニー」やデコボコしたものに紙を押し付けてこすりつける「フロッタージュ」といった教科書で見た用語が使われており興奮する。まさにアハ効果実感中である。

福沢一郎「Poisson d'Avril(四月馬鹿)」(東京国立近代美術館)

日本からはまず、福沢一郎「Poisson d'Avril(四月馬鹿)」が展示されていた。「四月の魚?なんだろう?」と思っていたら、フランス語でエイプリル・フールのことを言うらしい。マックス・エルンストのシュルレアリスム小説「百頭女」から影響を受け、フランスの児童書「楽しい科学」からイメージを引用した一作。複数の人物が意味ありげな行動を取っているが無意味に見える。「科学はそれを知らぬ者にとって魔法にしか見えない」といった言説を耳にするけど、この場合「科学はそれを知らぬ者にとって奇行にしか見えない」と風刺しているように思える。

北脇昇「独活」(東京国立近代美術館)

第二次世界大戦後、復興し経済的に再生していく過程でアイデンティティの喪失、開かれた世界への困惑の表現として北脇昇「クォ・ヴァディス」が有名だが、シュルレアリスムの観点で彼の「独活」がフィーチャーされていた。人間のように見える木が2本立っている。そのうち一本は逆さとなっている。影、切り株、果てしなく広がる水辺のような大地のような空間。ジョルジョ・デ・キリコやサルバトール・ダリなどの王道シュルレアリスム作品となっており、無意識にある不安が現出している一作である。

3.デカかった!?「山下、パーシバル両司令官会見図」

宮本三郎「山下、パーシバル両司令官会見図」(東京国立近代美術館)

先日アップした「美術史におけるメディア戦略について」にて、プロパガンダとして絵画が利用されてきた側面について語った。第二次世界大戦中の日本でも、同様のことが言え、政府は記録と戦意向上のために藤田嗣治や宮本三郎などといった画家に戦争画を描かせた。東京国立近代美術館では、彼らの戦争画を展示しており、「続 西洋・日本 美術史の基本」で構図解説が掲載されていた「山下、パーシバル両司令官会見図」があった。これはマレーの虎こと山下奉文がシンガポールを攻略し、英国司令官パーシバルに降伏を迫る状況を描いたものだ。日本軍の大勝利を称える作品なため、サイズも大きい。威圧感ある黒づくめの日本軍と背中で焦燥を語る英国軍が対比の関係性となっている。隣には藤田嗣治の「血戦ガダルカナル」もあり、これまた大迫力な一作となっていた。彼の戦争画は、非常に暗いトーンで描かれているため、Webやテキストよりも実際に観た方が生々しく見える。暗闇を凝視することで浮かび上がってくる、阿鼻叫喚の兵士たち、荒々しい自然描写に圧倒されるのだ。

4.河原温「日付絵画」

河原温「JULY 15 1970 Todayシリーズ」(東京国立近代美術館)
河原温「孕んだ女」(東京国立近代美術館)

コンセプチュアルアートといえば河原温の日付絵画だろう。単色で塗りつぶし、その上に白い文字で日付を描く。その日に生きた証を刻み込むシンプルな作品。これは国立近代美術館で観られる。通常、絵画は実物を目にすると筆の質感に対する理解が深まる。しかし、河原温の「日付絵画」は丁寧に色が塗られ過ぎていて、既製品のような印象を受ける。実際に生で観ることで、物質よりもその外側に力点が置かれていることをひしひしと感じる。彼は日付絵画の印象が強いのだが、当然ながら他にも作品がある。映画『CUBE』を彷彿とさせる空間にバラバラの人体が浮遊する「孕んだ女」は強烈であった。

同じフロアに別のアーティストの印象的な作品があったから貼っておく。

荒川修作「彫刻するNo.1」は配信画面やサムネの参考になりそう
ジャスパー・ジョーンズ「デコイ」(東京国立近代美術館)
タイトルをメモるのを忘れたが印象的な作品だった。

5.フェミニズム×ビデオアート

■マーサ・ロスラー『キッチンの記号論』

企画展示でフェミニズム×ビデオアートの展示があったので2本ほど観た。一本目はマーサ・ロスラー『キッチンの記号論』である。女性が、スプーンやナイフ、エプロンといった単語を連呼していく本作は、70年代当時のアメリカで女性料理研究家によるクッキング番組が流行る中、「女性」と「料理」が結びついてしまうことを批判的に描いた。単語レベルに分解された料理器具とそれに対して異様な動きで身に付けたり使用する女性の運動を通じて違和感を表現している。

松本弦人の名作ソフト「ポップ・アップ・コンピューター」Kitchenとの類似性
わたしの作ったずんだもんゲーム実況より引用

ふと、「ポップ・アップ・コンピューター」のことを思い出した。「ポップ・アップ・コンピュータ」とは、1994年にグラフィックデザイナーの松本弦人が手掛けたPCゲーム。飛び出す絵本の物理的運動とコンピューターのデジタルな動きを融合させたオシャレなソフトだ。この中に「Kitchen」という章がある。サルが陽気な音楽に合わせて料理器具を出していくのだが、段々と物騒な事態に発展していく内容。アイスピックや肉叩き棒が出てくる場面が一致していることから、松本弦人は本作からインスパイア受けていると推察できる。

■ダラ・バーンバウム『テクノロジー/トランスフォーメーション:ワンダーウーマン』

テレビシリーズの「ワンダーウーマン」を使ったMAD動画のはしりともいえるダラ・バーンバウム『テクノロジー/トランスフォーメーション:ワンダーウーマン』も興味深い一本であった。

ワンダーウーマンの変身モーションが執拗に反復され中々変身しない。彼女のアクションは執拗に遅延され、最終的に爆発と共に散る。そしてエンドロールでは俳優名ではなく、歌詞が流される。

ここ最近、ルーマニアの鬼才ラドゥ・ジューデが切り抜き動画のようなテイストで社会批判をしようとしているが、フェミニズム映画の文脈では70年代時点でそれを実践しようとしていたようだ。解説文を読むのを忘れてしまったが、なんとなく、フィクションにおける女性ヒロインに対して現実は様々な妨害によって活躍しにくい状況となっており、折角の活躍もスペクタクル(本作における爆発がメタファーだろう)によってかき消されてしまう様を表現しているのではないかと思った。

6.最後に

ソル・ルウィット「ウォール・ドローイング#769」(東京国立近代美術館)
法則に従って壁の升目に記号を入れていくソル・ルウィットの作品

美術史の勉強をしてから美術館へ足を運ぶと新しい世界が見えてくる。昨年、長年の夢であった「死ぬまでに観たい映画1001本」を全て観るプロジェクトが完了し、趣味活動に物足りなさを感じていたのだが、美術という新領域を開拓できているので充実した毎日を送れている。まだまだ、美術の触りの部分しか知らないのだが、この沼にハマってみたいと思った次第である。

7.参考資料


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CHE BUNBUN
映画ブログ『チェ・ブンブンのティーマ』の管理人です。よろしければサポートよろしくお願いします。謎の映画探しの資金として活用させていただきます。