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物で溢れている世界を置いて、私は死ねない

SNSの攻撃性に見慣れるような、そんな人間になってしまった。そればかりか、私自身が言葉というものを、人を殺せるくらいに鋭利に研ぐ方法を知ってしまっている。10代のリストカット痕にだってすっかり慣れきった。職場で働いていながらそうした現実を目にするのももう片手に収まりきらない。
苦労ひとつ知らなそうな白い肌の上澄みに乱立する傷跡の集合体を見ても、まだまだ彼女のそれはいずれも切り方が浅く、真皮とその下に眠る血管の間をまさぐるように線が引いてあるばかりだから、跡を残すとしてもほんの数週間程度。だから大丈夫。そう、安心している。
" 一歩間違えれば死んでしまう " という狭間に対する感覚が麻痺しているとは思いたくない。しかしデパスを大量服薬している十代や血肉滴る腕を不特定多数に見せつけている群像を見ていると、このくらいはまだ…という感覚を持ち合わせてしまう。もっとも前述のような状況下で生きている少年少女に対して眼差しを向けなければならないであろうに、目に見える" 最低が " あるとそれは忽ち基準となり、より軽傷な者達に対する一種の救い種として消費して終わりだ。

" 昨今の映像作品や文学作品は皆、死というコンテンツを利用すれば良いと思ってやがる " というひと言、投げられた石を見て憤怒に駆られたのは無論私も生死を題材に言葉を綴っているからだった。文章のインパクトを一題材に投げ打っているという真理を突かれてかなり痛かったのである。けれども世の中は " 死 " という実体に明らかに肉迫していることは確かで、またこれがそう遠いものではないと感じさせてしまっているのだから、そういった諸作品が消費者に求められることも、対し消費者が求めることも、あながち間違ってはいないということに気がついた。

著名人の自死を題材にして飯を食らうメディアが、自死をさせまいと声を上げているのも、何だかおかしな話であるし、病気で亡くなってしまった人をダシとして、自死をしようとしている人を止めようという人間の思想もかなり狂っている。哀悼の意を捧げるSNSだって、人を殺す原因となった現場に過ぎない。とするならばその嘆きをどこで吐き捨てれば良いのか、判然としなくなってしまった。道を切り拓くが故に、本来あるべきはずだった自己と他者の境界を断ち切ってしまった。どこに居ても誰かに見られているようで、事実見られているような監視社会がどこへ行っても存在する。では情報に触れるのを辞めればいいじゃないか、と云う者も居るがそれはかなり無理のある話で、既存の社会体系を知覚してしまったが最後、現実とバーチャルの齟齬からは二度と逃げることができない。

仕事をしているとふと、「私は居なくなってしまった方がいいのではないか」という終点に降り立つ。噛み砕いて分かりやすく言えば、「死んでしまった方が楽なのではないか」という地点に落ち着いてしまう。しかし私が死ねない背景には並の人間が捌ききれないであろう分量の道具を集めてきてしまったからだ。整理整頓の難しい私だから、職場を覗いても、自室を覗いても、私を私たらしめる道具がそこかしこに転がっている。例え私が今死んだとして、残された者達が残された物を一所懸命に片付けなければならないのだ、と思うとそう簡単には死ねない。自死はいけない、とも思わない。また逃亡であるとも思いはしない。しかし勝手に絶ったからには絶っただけの責任があると考えているから、私は山積した物の為に、ただ生きている。

亡くなった物の痕跡が映像や画像、文章といったメディアで残り続ける現実は相当残酷で、「ご冥福をお祈りします」という言葉が画面越しに扱われるほどに軽いものになっていることが少しだけ嘆かわしい。
石を投げて人を殺した者が生き続ける世界は本当に狂っている。訴えを起こしたところで金銭を主訴とした罰しか与えられず、彼らの思想や生活を全くといっていいほど変えられない世の中は無秩序で無責任だ。しかしこうして私も他人の死を題材として文を書いているのだから、この無秩序と無責任という片棒を担いでいる。私は私の生き方を容認していないし、私という存在に対しての肯定が出来ていない。しかしながら今日も、物が山ほど部屋にあるし、片付けるにはまだまだかなりの時間がかかりそうだから、私はもう少しだけ、生きていようと思う。



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