断絶交流
来学期の授業プリントでも作ろうかと、起き抜けにキーボードを叩く夏。エアコンの設定温度は26度に下げられて、部屋いっぱいに冷気が蠢いている。印刷室の小脇でほんの少し開かれた窓から、押し出される形で暖気が逃げていく。人気が少ないことを良いことに、「あ〜」と呟きながら" Q " を探した。キーボード上の " Q " である。
この世は言葉で溢れている。故に私は、単音で言葉を綴っている。キーボード上に散りばめられたアルファベットも例に漏れることはない。21個の記号を作為的に並べて文を書く。これが私の仕事である。そんな中で突如、" Q " を見失った。あらゆるアルファベットの中でもこの一文字だけ、どうしようもないほどに使用頻度が低い。低すぎる。心底可哀想だと、そう思う。午後4時になり外光も首を傾げ始めると、出窓沿いに植えられたモクレンに停泊する蝉がおんおんと鳴き始めた。
夏が来ても、夏らしいことなんていまいち出来ていない。行きたくもない部の大会、クレーコートのベンチで監督という首輪を提げ、沸騰した身体からぬるまったい空気をぜぇぜぇ吐いている。車から降りる前に、前日から車内に転がっていた気抜けのコーラを飲んだことが、かえって渇きを加速させていた。炎天37℃、モスグリーンのモルタルの上を歩く蟻もなかなかに辛そうだ。
起床時の日の傾き具合で、それが遅刻かどうかの判断は着くようになった。部屋に朝日が転がり込んでくる時分になろうものなら、その時点で30分ほどの遅延が生じている。この通り、遅刻した。目を覚まし枕元に置いてあるスマホの温かさ。指先からじんわりと全身に伝うそれは困惑か陶酔か、判断が付かぬほどに無気力だった。そうこうしているうちに一週間という莫大な単位はかなりの速度で磨り減ってしまい、遂に梅雨明けの発表まで為される事態に陥ってしまった。今年の夏は23年の半生の中で最も退屈であると、自信を持って言える。
退屈を重ねれば苦しみにもなる。退屈ばかりを重ねた果てに、この頃は絵を描いている。好きな車と、青い海。遠方に聳える灯台、という、ベターな夏の絵を描いている。学生時代より画家の永井博を敬愛していたので、彼のような絵を描こう、と思って擬似模写をしようと試みるのだが、これがあまり上手くいかない。私自身の絵の技法、技能、更には海など縁遠い山岳地帯に住んでいるというアイデンティティが邪魔をして、どこまでいっても私の絵にしかならぬようである。対人に疲れているだけあって、人間を描くことを必要としない絵画は形とすることが楽だった。このまま何かの間違いで、その絵の中に投影されてしまえばいいとすら思う。
かれ不幸を嘆いていた彼女も、「金がない」としきりに呟いていた彼も、結局は鞘に収まり幸せそうで、とてもじゃないけれど嫌だった。社交辞令的に「幸せになってね」と人に呟くことがあるけれど、私が願う形で私と幸せになれなかった人々はできるだけ早く死んで欲しい。
毎日そこら中に穴を掘っている。掘れども掘れども、私自身何一つ進んでいないような気持ちがして、心地が悪いのだ。綺麗な宝石だって汚い土の中に埋まっているのだから、何れ顔を覗かせるのかもしれないが、それを待つ時間すら勿体ないような気がして、今日も手近な安心がないか、そこいらを必死にまさぐっている。
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