素寒貧
「宵越しの銭は持たねぇぜ」 みたいな江戸っ子の精神をどことなく敬愛していた。今年の夏頃より流れるままに生きていたら文無しになり、その考えも改めねばならないところまで来ている。預金残高はマイナス2万円。数学で見慣れた単純な記号にこれほどまでに恐ろしさを感じたことはない。子どもの前で小ネタ程度に残高を開陳しながら笑っている場合ではない。一文無しどころか、金融機関に借金をしながら暮らすのはあまりに惨めである。江戸っ子にマイナスの概念なんてなかったのではないだろうか。銀行というシステムが出来上がり、それに縋る現代風味の私はどう頑張っても江戸っ子になることはできないのかもしれない。
社会人三年目も折り返しで、あとひと月ほど指を折れば四年目に突入する。同年代からひと足遅れる形で25歳を迎えるが、年齢の丈に合わぬ生活を送っていることを考えるとどうも手放しに喜べないのである。この頃は仕事が常にすし詰めの状態で圧倒的に時間が足りない。金もなければ、時間もない。仕事とはいえ、そんなタイミングで何故他人の面倒を見ているのだろうか。
金がないなら無いなりに、近頃は余暇に絵を描くことに心血を注いでいる。布張りキャンバスいっぱいに絵の具を塗りたくっていると、今日この頃までに感じてきた無力感ややるせなさすら、ひと息に塗り潰せるような気がして気持ちがいい。職場に残置されたホコリだらけのキャンバス。廃棄予定の迫った屑同然の板っぺらに色が乗る瞬間、何かを救ってやった気持ちになれる。速乾が売りのアクリル絵の具の塗布面が乾くまでの時間は私には長かった。水彩絵の具や油絵の具など以ての外、今年になってようやくパステルに手を出し始めたのだが、これは大きな収穫だったと思っている。
私が死にゆくまでの間、延々と健脚であろうと信じていた祖母の足腰が近頃は言うことを効かなくなって、犬の散歩の代行をちまちま始めている。運動習慣のない私だからこれはこれで有難いのだけれど、比例して祖母の弱りに拍車をかけてしまうのではないかという心配もあって、以前より祖母の家に行くことが多くなった。街路樹の度重なる伐採がこの頃のニュース。沿道に植えられていた数多の樹木も、同じ時期に植えられ尚且つ同じ時期を過ごしてきたのだな、と感慨深くなるなどしている。深刻近所を流れる小川には昔から数十の鯉が滝の如く泳いでいたが、近年その数を減らしている。何でも、新興住宅地に越してきた異邦人が集団で川の鯉を喰らって腹の足しにしているらしい。散歩中に出会った近所の老爺が言っていた。本当かどうかは分からないし、田舎特有の衛生観念のなさが川を殺しているんじゃないかって、疑う余地はいくらもあった。隣人が野良猫に毒を混ぜているだとか、向こう屋の旦那が自殺したとか、テレビでも報道されないことを知っているのが不思議で、小学生時分はこの老爺こそが地域の黒幕だと思っていた。若干今もそう思っているけれど、真実なんてものはどうでもいい。真実であろうがなかろうが、この街の人は皆素知らぬ顔をして生きているからである。
数年ぶりにテレビニュースを見た。どこを見ても闇バイト、どこへ行っても闇バイト。しかしその質量は限りなく軽く感じる。度重なる災害、事件や事故が起きすぎているために、誰もが感覚を鈍らせてしまっているような気がする。初めこそ騒ぎ立てるニュースも時間が経つとちょっと脇を通り過ぎるくらいの性質に変わってしまっている。それは私も例外ではなく、何を見てもまるで他人事のように思ってしまうのだ。
昨夏、ふらりと訪れた小山の麓でコバルトブルーに輝く小瓶を拾ってからというもの、古い瓶に思いを馳せるようになった。ちんけなガラクタは一瞬にして宝石に変わり、それが母親の不注意で粉々になって、折角の休日に暗い部屋で放心している。何か新しいものを見つける度に、失うことを繰り返すのは、もう懲り懲りだ。