石のような自由 /創作
数週間前にSuicaを紛失し、探すことにすら疲れて新規のカードを発行した。2万円を上限額としてチャージをすることは可能でも、再び手元から離れていく未来が利き手とは逆の手でも描けるほど身近なものに感じると怖くなり、500円だけを収めた状態で受け取った。板っぺら一枚でも、手に入れると同時に何だか気が大きくなってしまって隣駅まで買い物へ向かうことにする。電車の天井付近に吊り下がっている垂れ幕に落し物をしたらしい駅を見つけると、電車の車体も私をせせら笑っているように感じた。
自宅へ戻ってすぐ、待ってましたとばかりにSuica発見の連絡を貰ったときには流石に床にへたりこむしかなかった。カウンターの上部にある棚の中を漁ると出てくる、7枚のSuica。ここに今日発行したばかりの8枚目を加える。隣町への往復分を抜き、カードの中にはあと200円ほどの金が残っている。先住の7枚も同じような具合だ。カードの一枚一枚に沈む小銭をありったけ掻き集めたなら、かなりのお金が手に入るかもしれない。億万長者とは言わなくともケーキ1つ分の贅沢がそこにあるかもしれない。しかしそう思ったとて、ここからお金を出す方法を私は知らない。誰かに聞くことで解決するとしても、そこまでしてあぶくのような銭を拾い集めることは限りなく卑しく感じて、行動に移すには気が引ける。
昔から軽重を問わず物を無くす癖がある。私が生まれ育った土地や親の転勤で一時的に住まった土地、今こうして独居を構える土地、また観光で大した時間を消費していない土地に至るまで、あらゆる場所のデータベースには私の名前が記録されている。他人と接吻を交わした経験よりも、遺失物届けを出した回数の方が多いかもしれない。運がいいと言うべきかはたまた土地柄が関係しているのか、財布を落としてもそのままそっくり返ってくる。一度として中身を抜かれていた試しなどない。
もし他の土地に生まれていたとするなら、真っ先に淘汰されるべきは私のような人間に違いない。キリンを例にして言えば、首の長い個体の方が生存に有利であった歴史を持つ。私は首の短いキリンの方であるということは考えずともよく分かる。
部屋を改めて見回す。形のいい石を拾う癖が着いたことを話し始めるには、小学三年の頃まで遡る必要がある。ひとり子を産み落とした両親は絶望的に仲が悪く、夫婦喧嘩の板挟みになりそうなことを察知すると私は外へふらふらと出ていって、なるたけ丸い石や独特の輝きを持つ石を拾うことに熱中していた。父と母が互いに顔を突き合わせなくなっても、その癖が抜けきらないままにここまで来ている。テレビが未だ未設置のテレビ台の上には、所狭しと大小様々な石が列べられていた。そう意識しないうちにこの部屋には物が増えているけれども、増えゆく物達は一向に用途不明の石ばかりである。石は動かず、何も言わない。下手な動物よりも人間よりも、関係性はこちらが決定づけることが出来るからなにより好きだった。
ただ。こうした物たちに気を取られながら生活をしているばかりに、幾多の物を紛失してきたのかと考えるととてもではないが、穏やかな気持ちにはなれないのが、この頃の悩みでもある。
「石よ、お前はいいな、動かないことが正解で。」
ふとそんな言葉が漏れた。自発的に声を発したというより、見えない力が働いて言葉が漏れた。石の真似をしようと、まだ空が明るいうちから寝床へ潜った。石のように動かずに生きてみようと決めてのことだったが、これが案外難しい。体育座りのまま横たえた体勢をとってみるも、すぐに身体は動きたくなる。膝にかけて回した腕がピリピリと痺れて、曲げたまま固定された足は伸びたい様子で今にも発射しそうな勢いだ。何より圧着した部分部分を通じて、脈拍が産む微振動がいつもより気になってしまって、我慢に我慢を重ねても15分そこらが限界だった。石となることを諦めて、一度は横たえた身体を地面と垂直方向に立て直すと今度はここに至るまでの軌跡を頭に巡らせた。
するとどうやら、石も動いてない訳では無いらしいということに気がつく。生まれときから丸いなんてことは断じてなく、山際から削り出されたひとつの塊が下へ下へと下る間にいくつかの欠片となって分散し、ここまで来たに違いない。その過程で確かに角を落として来ている訳だが、その丸みやへこみに魅力を感じている私がいる限りは、落とした角すらも必要な紛失であったように思える。下手したら、私よりも長く移動をしているかもしれない。頑として動かず不自由な対象として、これまで石を慕っていたけれどもよくよく考えればそんなことはないと知ると悲しくなる。石も自由、というより石こそ自由なのやもしれぬ。そう思うと今テレビ台で静かにしている物達からの視線を感じて、いたたまれない気持ちになった。時計を見るともう4時へと向かおうとしている。日曜が綺麗さっぱり終わってしまう中で私は、石よりも自由を失っていた。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?