「のっと」という店が、そこにあったということ
北越谷にかつて、" のっと " という軽喫茶があった。店内を覗けばいつでも主人は寝ているか、煙草を吸っているだけ。特別感なんて何も無い店だった。特別腹も減っていない、寒い冬中の昼下がりにほんの気まぐれで来訪し、ヤニまみれのメニュー表から頼んだカフェオレのカップの縁には、牛乳の皮膜が浮いていた。薄い錆のベールがかかったティースプーンでぐるぐるとかき混ぜて飲んでみても、400円という金目が許せないほどに薄いカフェオレだった。人生の中で最も薄く、味気ないカフェオレだったと思う。
ふた口流し込んで我慢ならず、備え付けのガムシロップを溶いて飲もうにも、とても飲めるものではない。向かい合わせに座っていた友人が脇に避けていたガムシロップを所望し、これまた丹念に溶き入れて、やっと飲める。そんなものだった。
壁面を沿うように備え付けられた漫画本も、店主が漂わせるセブンスターの煙のお陰か、通り沿いから差す陽光のお陰か、背表紙はすっかり色を変えていた。
久方振りにそんなことを思い出し、ネットの海からかつては精力的に動いていたであろう弊学のブログ(卒業済みではあるが)を発見し、これを覗いてみた。いつ書かれたものかは判然としない。しかしブログのレイアウトや主人の若さから、10年以上の月日は流れていると推察する。無精髭を生やした主人の顔は、学生の頃訪れたあの時とまるで変わらぬ、微笑みとは無縁な目をして遠くを見るような表情だった。要約すると、この時点では婦人と一匹のマルチーズと店を切り盛りしていたようだ。よく喋る婦人のお陰もあって、店は明るい雰囲気だった、そんなことが読み取れる。この生活に翳りが出始めたのはいつ頃か、今となってはその塵ひとつ窺い知ることはできない。ただ私が入学から卒業に至るまで、主人以外の影を誰ひとりとして見掛けたというものは居なかったし、長い講義を終え、屋外の灰皿を借りて煙草を吸う間も、一度として見かけることはなかった。
恐らく、そういうことだったのだと思う。主人があの店の中で独り居続けていた、という事実は、そういうことを意味していたのだと思う。メニューに書かれた料理はどれも自慢の味で、人々が来るのを待っている、という内容とはどう見ても似つかぬ風体で、暗澹たる店内は窓越しに見ても異質なものだった。
店名の「のっと」は結び目を意味する " knot " が由来で、その真髄には縁結びの役目が出来たら、という意味が込められていた、とある。平成生まれのうだつの上がらない学生が吸い込まれるのは安い酒を提供する居酒屋が殆どであったから、21世紀の社会にとって、人間にとって、その意に形を持たせることは相当に難しいことだっただろう。しかし時間通りに店を開け、閉店時刻を過ぎてもなお、店内に姿があったことを思い出すだけで、店に対する想いの厚さを推し量ることはできる。あの薄いカフェオレも、濾し紙のような生姜焼きも、主人のこだわりであったと思うと、さっさと出ようと荷物を畳んだあの頃が残酷に思えてならない。どうせならもう少し椅子に深く腰掛けて、窓辺に置いてあるアキラの漫画本くらい読んでおけば良かった。さわりしか知らなかった、ゴルゴ15の黒い肌の狙撃者の中身を、ここで知っておけば良かったと思っている。卒業してから暫くして、サークル仲間の後輩から、「店の軒先に救急車が停まっていた」という報告を聞いたのを最期に、表戸口は一切開くこともなく、店内を明かりが包むこともなくなった。少し間を置いて、店もすっかり無くなってしまった。人が亡くなれば当然私物も面影もなくなっていく。順番通りだ。そこに残ったのは、刺毛のように茂った野草の塊と、一定の湿り気を持った土、駐車場から僅かに漏れ出てきた砕石、のみ。夜中に街へ降り立ち、個人経営の飲み屋で一杯引っ掛けた後の流れやその反動。これを抜きにしてもここ数年の中に存する、選りすぐりの寂しさだった。
人も街も、皆泡沫みたいなものだと思う。50年生きようが、80年生きようが、数億年という時間の持続から見れば瞬きくらいの存在である。亡くなれば誰かが思い出してくれる、という言葉もあるが、人間は実態の無いものを頻りに気にかけているほど、思考の余剰を持つ生き物ではない。それならせめて、生きた痕跡が残っていればとは思うが、人間社会はそんなものを残しておくほど優しくないのだ。たった今もう一度あの街に降り立ち、店舗跡地の残土を掘り返せば、生きていた痕跡のひとつくらい見つけ出すことはできる気がするのだけれど、気がするだけでそれも叶わない気がする。ただ今の私にできることは、水に似るほど薄いカフェオレを出すような場所があったということ、抑揚のない表情を浮かべるひとりの主人が居たということ、それのみである。氏、素性を知らぬ人間ほど記憶に纏めにくいものはないが、これから私が生きとし生きつつやがて死ぬまで、このことを忘れずにいようと思う。
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