犬も鎹の話
「もうそろそろ危ないかもしれない。」
そんな言葉を聞いてから数年が経った。私の実家には2匹の愛しい犬が居る。柴犬の雑種とチワワの天使たち。雑種の子は数年前に他界したが、気性の優しい男の子だった。一方、チワワの子は小さいながらに怖いもの知らずな女の子。(写真の溶けてる犬はこの子。)
2匹が家族になり早20年ほどが過ぎた。私も大きくなったのだから、当たり前に彼らも歳を取る。赤ん坊だったチワワの子も今や、(母曰く)棺桶に片足を突っ込んでいるという。
会いに行けば確かに老いを感じる。そりゃ14年も生きてたらおばあちゃんにもなるよね。彼らと過ごした20年を振り返るとそれは愛しい思い出に包まれていた。
例えば、私が小学校低学年だった頃。
酔っ払った父親と2人で雑種の子を散歩していたとき。あろうことか父親は道で寝てしまい、雑種の子と取り残された私は半ベソ。
力も弱く1人では犬を連れられない私は雑種の子に「お父さん見ててね」と約束をし、泣きながら助けを呼びに。
戻るとそこにはちょこんとお座りしている雑種の彼と寝ている父親。果たしてどちらが飼い主なのか。 その後、父親が母親にひどく怒られたのは言うまでもない。今でも話題に上がる、ある夜の光景。
はたまた、チワワの子が我が家へ来た日。
ブリーダーの元から赤ん坊の彼女はやってきた。
赤ん坊の子犬に触れたことのない小学生だった姉は何を思ったか、ほふく前進。姉がやるのだからと、幼稚園児の私もほふく前進。見ていた母親は爆笑。チワワの子も面食らってたことだろう。謎の大きな個体2つが、這いつくばって自分に向かってくるのだから。
まさか数年後、このチワワの赤ん坊がわがままヤキモチ焼き娘に成長するとは、この時はまだ誰も知らない。(それもまた可愛いのだけれど。)
近頃。
チワワの子は年老いてきて軽々と飛び乗れたソファーにつまづき、お漏らしはしょっちゅうのこと。考えたくもないけれど雑種の子を見ていた手前、その日が静かに近付いていることを感じる。
“ずっと言ってることだけど、「犬というものの正体は、犬というかたちをした愛」であるという思いを強くしています。もともとの、目に見えるかたちでなくなったブイヨンは、まだちゃんと「愛」としてぼくらのそばにいます。亡くなって、「愛」が無くなったのではなく、見えないかたちの「愛」になったのだとわかりました。”
引用 今日のダーリン 糸井重里
愛犬ブイヨンが亡くなった時の糸井重里さんのエッセイ。この文章を読んだとき、スッと心が軽くなった。いつか訪れる別れのとき、こう考えればいいのだと、考え方のお手本を見つけたような気持ちだった。
落語の演目に「子は鎹(かすがい)」という話がある。鎹とは2つの木材を繋ぎ止めるコの字型の杭のことで、別れを決めた夫婦が子どもを通じて寄りを戻すという流れ。お話は子どももまた夫婦を繋ぎ止める大切な存在だ、というオチに繋がる。
この話を知ったとき、私はやっと気付いたのだ。
きっと、雑種の子も、チワワの子も、私たち家族を繋ぎとめる鎹だったのだ、と。
鎹として犬の姿で現れた尊い2つの愛は、私たちを選び、訪れては私たち家族を強く結びつけていたのだと。
抱っこしたときに小さな体から感じる温度、
冬の夜にピタッと寄り添ってくるあの温もり、
お帰り!と言わんばかりのあのキラキラした眼差し、
全ては犬というかたちになって、私たち家族の前に現れた大きな大きな愛だったのだと今なら分かる。
かたちが無くなっても彼らは永遠に、私たち家族の鎹であり続けるのだと思う。そうしてきっといつまでも思い出話をして笑えるはずなのだ、あのお父さんが寝ちゃった夜の話とかね。
いつか来るその日にそう思えますように。
そしてその日はまだまだ訪れませんように。
子は鎹、犬もまた鎹のお話。
おしまい。
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