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1-7 下僕、イモをひねり潰す ~小説「女主人と下僕」~敗戦奴隷に堕ちた若者の出世艶譚~



ディミトリの「マーヤへの恋」が街に知れ渡って数年も経ったろうか。

その日、とうとうヨサックは本気でディミトリとマーヤの仲を潰しに掛かってきた。

このザレン茶舗の奥には、屋根はないが石畳で四方を建物で仕切られた、大きな正方形の中庭がある。仕切っている建物の3方の壁はザレン茶舗であり、ザレン茶舗の敷地である。

庭といっても、屋根がないだけで、石畳であり、そこは一種の非常に広い作業場であり休憩所である。粗末な大きなテーブルが何個か置いてあったり、部分的には雨除け日よけの布が屋根代わりに貼られていたりする。

雨除けの布が張ってある粗末なテーブルが数個置いてる空間で従業員が休憩や食事をしたり、反対の角でまかないのコックが野菜の皮をむいたり、干場では洗濯女たちが洗濯ものを干したり、ちょっとした汚れ仕事、古い茶箱を解体するなどの軽作業をしたりする、広場のような場所だ。

そして、その場所は、取引先のバカ息子であるヨサックが自分の仕事をさぼりに来る所でもあった。

店長代理のディミトリを嫌う茶舗の数人の怠け者達と、ヨサック達は、そこでよくつるみながら仕事もせずにダラダラしていた。

その日、ザレン爺との歓談が終わった後、マーヤは中庭にやってきた。休憩中のディミトリに一言挨拶してから帰ろうというのである。

マーヤがやってくる人影が見えた瞬間、数人の塊の中から、青い大きな目のまあまあ美男子だが気持ち太り気味の男が...一歩前に出た。ヨサックだ。ヨサックは...この日ついに大声を上げた。

「ディミトリ!おい!お前、マーヤが好きなんだろ!なんで告白しねえんだよ!!とっとと面と向かって告白して振られちまえよ!!」

ディミトリは返事をしない。

ヨサックは、マーヤが中庭に入るか入らないかの微妙なタイミングを測って叫んだのだ。

「聞こえてんのか?おい!」

ヨサックがディミトリにジャガイモを投げつける。ジャガイモはまともにボコンとディミトリの背中に当たって床に転がった。

ディミトリはうんざりした顔をしながらも一向に怒らない。

「ヨサックさん...そんなもの投げつけなくても聞こえまさあ...勘弁して下さいよ」

ヨサックは思った。
生まれつき怒ることを忘れた男、茶舗の従業員というよりは用心棒か軍人みたいなごつい体格のくせに、気の弱い意気地なしのディミトリでも、さすがにマーヤが見ていると気づけば、ひょっとすると面子を考えて怒る可能性もある。

だから、わざとディミトリにはマーヤが来た姿が見えない角度で、しかしマーヤからはディミトリとヨサックのやりとりがしっかり見える距離を測り、ディミトリがけちょんけちょんに虐められているその一部始終を、マーヤによく見せつけ、(ディミトリはこんな情けない奴なんだぞ?)と、マーヤにディミトリを幻滅させようという魂胆だ。

「おいっ!ディミトリ!聞こえてんのか!いいかげんにマーヤにちゃんと面と向かって告白しろよ!な!みんな見ろよ!ほうら!こいつは腰抜けなんだぜ!だから俺にこんなに言われても何も言い返せないのさ!」

ヨサックは、驚いたようにしているマーヤによく聞こえるようにわざと大声を張り上げた。

そう、ヨサックがディミトリに絡み始めたのは、丁度マーヤがの中庭に立ち入るか入らないかの瞬間だった。ヨサックは繰り返す。

ヨサックの仲間の、ディミトリ嫌いの怠け者の従業員達も一緒になって嘲笑っている。

広場にはディミトリを慕う他のまともな従業員たちもぽつぽつ居たが...休憩中の従業員とか、洗濯ものを干す洗濯女とか、まかないの飯炊きの下僕とか...ひたすら表情を硬くしてうつ向き気味で聞こえないかのようにふるまっている。

ディミトリも俯き気味で黙っている。

マーヤは、初めて見るあまりな光景に呆然として立ちすくんでいる。

(なにやら常にヨサックはディミトリに突っかかって様子はあったけど、一体今日はどういうことなの!?何があったの?!)

ヨサックは、これでマーヤがディミトリの意気地なさに幻滅して、泣きべそをかきながらそっとディミトリに見つからないように逃げるように立ち去ってマーヤはもう二度とディミトリに会いに来なくなると考えていた。いままでこういうことを誰かに仕掛けた時はそうなった。

だが、マーヤは判官びいき、つまり弱いものいじめを見ると弱い方に加勢したがる性格、なのも手伝って、まずはむしろヨサックにむかむかと頭に来た。

マーヤは、少し垂れ目、下がり眉の、あどけない童顔の、細い腰とぽよんぽよんしたけしからんおっぱいの、気持ち小柄な、どこからどう見ても、男に盾つくタイプには見えない外見の女だ。

ただし。...いつもは優しそうにしているので誰も知らなかったが...マーヤは案外に猛々しい面を秘めた、そして恐れることを知らぬ女であった。

マーヤは、平気で、とこ、とことことことこ、と、ヨサックやヨサックにつるんでいる不良仲間の一群にあと2、3歩の所まで、なんと、自分から歩いていって、長身のヨサックを見上げるようにして、あの童顔のおでこをヨサックにまっすぐ向けて、立った。

そして、マーヤは突然ヨサックに言い放ったのだ。

「そこの下郎」

ヨサックは目をまんまるにしてびっくりしている。ふつうの女ならディミトリに幻滅しながら泣きべそ顔でうつ向いて逃げていく場面のはずなのに、何が起こったのか解らない。

「いい加減におし。無礼にも、マーヤ、だと…?お前のような下郎に私の名を軽々しく呼び捨てで呼ばれる筋合いはないわね。気持ち悪い」

そして、マーヤは次に、また、とことことことこ、とマーヤ特有の、どこか可愛らしい、ひよこがピコピコと歩く時のような、いや、お尻が大きいせいでセクシーに揺れているともいえるが、とにかく何だかこどもみたいな頼りない歩き方でディミトリの所に行った。

「ね、ディミトリさん、あっちの方に行きましょう」

そして、マーヤは、これみよがしにヨサックに見せつけるようにヨサックに目線をちらとくれながら、ディミトリの両手を、普段はけっしてそこまでは触れないのに、自分のしっとりした両の掌で包み込むように優しく握ってディミトリに笑顔を向けた。

ディミトリもちょっと声を失ってぽかんとした顔で、自分よりかなり小柄な子供みたいな童顔のマーヤを見下ろした。

中庭で休憩したり作業したりしていた従業員達は見ないふりしつつも驚いた。

(え!『下郎』...?『軽々しく呼ぶな』…ってそんな、そんな偉そうな事をいうような人だったろうか…この女性!?)

つまり、マーヤは、金持ちの卸問屋の婿、しかも上級市民のヨサックを...下郎...いやしい下僕扱いして、そして実際はザレン爺の敗戦奴隷身分である下僕のディミトリを「ディミトリさん」と呼んだのである。

周囲の人々は(普段、身分の低い洗濯女の婆さんにも優しいマーヤが、上級市民のヨサックを、まさかこんな言い方をするとは!)と固唾を飲んだ。

マーヤは貴族だった時代に、身分の高い女達が身分の低い逞しい兵士のような男達を平気で従え、酷い時には平気で蹴ったりする場面にあまりにも見慣れていたので、女に侮辱されたくらいで男がひどくショックを受けて頭に来るという感覚が、ほとんどわかっていなかった。

そのうえ階級制度なんて内心では「馬鹿げたつまらない物」だと軽視しているマーヤの感覚では、この程度の一撃は強烈ながらも、あまり強い意味あいではなかったのだ。

だが、上級市民であることを心の支えにしているヨサックにとっては、そして敗戦奴隷身分の癖に、自分よりずっと複雑で責任ある仕事を任されてるディミトリに、ひどく嫉妬しているヨサックにとっては、マーヤのこの仕打ちは心臓をえぐるような失礼なやり方だった。

しかも、マーヤは知らないが、ヨサックとつるんでいた数人の群れの中には、ヨサックの情婦がいたのである。とても若いが、暗い顔の地味でやや堅肥りの少年じみた小柄な色気のない女であった。ヨサックが結婚していることを知っているのに、身分も違う事も知っているのに、若さゆえに恋をして、カネもたいしてを貰えるわけでもないのに、それでも尽くしている可哀そうな女であった。

ヨサックはその若い女そのものに興味があるというより、カネで釣ったわけでもないのに、若い女が自分にそうやって夢中になって尽くして来ることに内心強く誇りに感じていた。ヨサックは、その女の前で、面子を潰されたのである。ヨサックは心底、腹をたて始め、必要以上にやり返しはじめた。

…要するに、ヨサックは本気になって怒りはじめたのだ。

ヨサックは、離れたマーヤに向かって大声で怒鳴り出した。

「…へっ!マーヤちゃん?あのね、あなたさまは確かに亡命する前はお貴族様かもしれないですが、この国では俺と同じ上級市民ですからね?...お前なんかがそのでっかいおっぱいをぷるぷるさせてどんなに怒ったところでお前には俺をどうにか出来る訳でもないんだぜ?」

「汚らわしい」

「ふん、下僕のディミトリなんかとままごとみたいにイチャイチャしてないで、早くちゃんとした男の嫁になれるといいねえ、たとえば俺みたいな立派な上級市民のね…?まあ俺はもう結婚したが、妾のひとりぐらいにならしてやるぜ?」

マーヤは知らないが、その発言は、ヨサックにひそかに尽くす、いまヨサックのすぐそばにいる、ヨサックの情婦に対しても、残酷な言葉だった。

「!!!!」

「大体ね、マーヤちゃん。中途半端に下僕なんかに優しくするのは却って可愛そうですよ?…ああ?解ってんのかよ!!!」

ヨサックもおそらくここまでやる気はなかったのだ。

そもそも、初めにあれだけのことをやったのに、マーヤがディミトリに幻滅してディミトリから離れて立ち去らない理由もヨサックにはわけが分からないし、産まれてこのかた女にあそこまで言われたのもはじめてである。

ヨサックもマーヤを責めるのが止まらなくなって来た。

「…てめえ、どうせ、ディミトリと一発寝てやる勇気も無いんだろう!却ってディミトリが可哀そうだぜ!...女のくせにてめえこそ!どこまで生意気なんだよ!口の聞き方を弁えろってんだ!...そもそもディミトリは危ないぜ。ディミトリはいつも上品ぶってるがな。多淫で有名なゾーヤの敗戦奴隷だぞ?口ではマーヤ様、マーヤ様なんて言ってるが、腹の中ではぞっとするようなえげつない事考えてるぞ?いつか無理やり犯されるぜ?...マーヤちゃんがよお、ぷるぷる、ぷるぷる、おっぱい震わせてさ、中途半端にディミトリにばっかり優しくするもんだから、ディミトリはもう何年もマーヤちゃんにメロメロになっちゃって毎晩…ひひ…きっと苦しんでるんだぜ!?」

ヨサックはディミトリに向かっても大声を出す。

「なぁッ!そうだろ!ディミトリッ!?聞こえるんだろ!それでも男かよ!!」

マーヤはヨサックにまた言い返す。

「汚らしいなめくじ男め…口の聞き方を勉強しなおすが良い」

「おお、こわい!こわい!ははは…」

ヨサックは仲間と何やら喋りあいながらディミトリとマーヤを離れて嘲笑っている。

ディミトリがいかつい身体をかがめてマーヤに小声で言った。

「マーヤ様、いくらなんでもやり過ぎです。ああいう面倒な性格の男のメンツをやたらと潰しては…」

「何だと」

マーヤの激しい怒りはついにディミトリにまで向かった。可愛らしい童顔の頬が怒りで上気して紅が差し、黒いつぶらな瞳も怒りで光っている。マーヤの声はヨサックに怒った時よりもよほど大きくなってきた。

「ディミトリ、お前、私があれだけ侮辱されたのに、私の方が悪いとでも言うように言うんだね?」

(えっ!ディミトリにまで?!あのいつも優しいマーヤ様がどうしちゃったんだ?!)

マーヤは怒りのあまり、貴族だった時代に、使用人や奴隷に命令する時の喋り方…思春期になって(いくら奴隷相手でもこのような話し方をするのは人間として間違っているわ)と自分ひとりで思い立って、誰に止められたわけでもないのに自ら棄てた、昔、その当時、自分以外の親族郎党や貴族ならば誰でも平気で奴隷にやっていた喋り方…に無意識に戻っている。

(ふだんは、ディミトリどころか、よぼよぼの屑拾いの婆あにまでしゃがんで目を合わせて敬語を使うマーヤ様が!?どうしたんだ?!)

作業場の皆んなは静まり返って俯いて聞かないふりしながら注目している。

(やったぞ...!上手くいった)

特にヨサックは、ディミトリとマーヤが、ついに仲違いしつつある瞬間を、目を輝かせて注目していた。

ヨサックは自分の情婦の目の前で面子が立てられて嬉しくてしょうがないという顔をして、暗い目の若い貧相な女の太い肩を抱き寄せながら、仲間数人で嘲笑しながら、マーヤとディミトリを離れて見つめている。

「そりゃまぁ、どう考えても、マーヤ様の方がダメでさぁ…ああいうのは放って置けば良いんですよ…」

ディミトリは、怒るマーヤに何の反感も感じず、甘いくらいの優しい瞳でなだめるような調子でたしなめた。その口調には、親が子をたしなめるような、変に場違いな、妙に堂々とした調子があった。

だが、その一言で、マーヤはディミトリにまで完全に頭に来た。そしてマーヤの中の マ ー ヤ の 知 ら な い 何 か が言わせるようになってマーヤはなんと女だてらに、あのマーヤの、こどものように小ぃちゃな、しっとりした真っ白な手で、自分よりも頭ひとつふたつ背も大きい、逞しいディミトリの、胸ぐらのシャツを掴んで言い渡した。

「ディミトリ、お前、わたくしが悪いだと?…言ってくれるじゃないか…あたしは、お前を!あたしの気に入りの大事なお前を侮辱されて腹を立てているんだよ!とぼけるのもいい加減におし!…お前、本当はやれるんだろ...。お前が頭に来ないならそれでもいいだろう。ならば、ディミトリ、命令よ。いますぐ、あいつを叩き潰しておいで!」

その調子はむしろヨサックへの罵声よりもよほど容赦のないものであった。
周囲は凍りついた。

(悪気ないにせよ、マーヤさんは何という、何という、男心を解せない、残酷な事を仰るのだろう!)

(身体こそ逞しいが、生まれてこの方怒ることなど忘れてきたようなディミトリになんという無茶な事を言うのだ!)

(いつも炊事女にすらからかわれてはベソをかく意気地なしのディミトリに、あの、不良の頭のヨサックに喧嘩を売れとは!!)

(そんなことディミトリにできる訳もないのに!ディミトリがあまりにも!あまりにも!可哀想だ!)

(男のディミトリがこんな形で泣きべそをかくところなど!さすがに!残酷すぎて見たくはない!)

ところがディミトリは、そんなマーヤに対して、やはりまったく怒らず、また、ひとかけらも傷ついた様子もなく…

いやむしろマーヤに胸ぐらを掴まれた瞬間のディミトリは胸ぐらを白い手で掴まれた感触をどきどきしているとしか思えないような、なにかこう、ものすごく場違いな、感極まった、妙に甘いため息を吐いたのだ。

(最悪だ…ディミトリが可哀想過ぎる…)

と遠く離れた周囲がいたたまれなさの絶頂を迎えた瞬間、

「仕方がねえ、よろしゅうございます。ただね、マーヤ様、今回限りです。二度はやりませんよ?」

とディミトリは甘い瞳で、自分の胸ぐらを掴んだままのいきり立つマーヤを見つめて、自分の胸ぐらをつかんだマーヤのきめ細かな白い手を、愛しくてならないというように、包み込むようにそっと撫ぜながら甘い声で囁いた。

自分で焚きつけたくせに、マーヤはポカンとしてディミトリの胸ぐらを掴んだ撫でられていた。

中庭の作業場で働いたり休憩を取っていた人々は目を丸くして固まっていた。

ディミトリとマーヤのやり取りを嘲笑いながら、すこし離れたところで聞いていたヨサックもちょっと固まった。

(まさかいくらなんでもあの、何をされても絶対に怒らないので有名な、あの気の弱いディミトリに、まさか何か出来るわけもないが…近所の悪ガキに戯れに足で蹴られても怒らないディミトリだぞ?...場を収めようと俺に謝ろうとでもいうのか?…なんだろう?)

ディミトリの声はまだ甘い。

「マーヤ様、そのままそこに居てくださいね…こっち来たらダメですよ…ほんのちょいとだけ危ないから…」

ディミトリは、マーヤからゆっくりと数歩離れ、ゆっくりと腰を折ってさっきヨサックにぶつけられた、足元に転がっているジャガイモをそっと拾い、立ち上がってヨサックの方に身体を向けた。

そしてディミトリは落ち着き払ってヨサックを見つめた。

ヨサックの表情が戸惑いから少しずつ恐怖に変わる。

ディミトリはさっきのジャガイモをゆっくりと自分の耳ぐらいの所まで掲げた。

そしてディミトリは目は見開いたまましっかりとヨサックを両の目で捉え、ゆっくりとわずかに歯を見せてにやりと笑顔を見せたのだ!

そう、口ではマーヤをたしなめていたくせに、その実、ディミトリの体内からいけないと思いながらも変な喜びが沸き上がっていた。

(この感じ…本当に...何年ぶりだろう…いや、戦後はじめてじゃねえか…まったくひさかたぶりだ...)

それは、ひさしぶりにネズミを捕まえて、ぐちゃぐちゃに引き裂いていたぶり殺すのが、楽しくて楽しくて大きな目をキラキラさせている、猫どもが感じているのと…全く同じ残酷な喜びだった。

そしてディミトリはその目を光らせわずかに歯を見せた笑顔のまま、掲げた手の中のジャガイモを、一気に!片手で捻りつぶした。

ジャガイモはグジュグジュに握りつぶされて、ひき肉のようになった。ぐしゃぐしゃの破片はディミトリの指の間からボタボタボタッ!と落ちていき、イモの汁が、ディミトリの握りこぶしから、手首、ディミトリの太い腱と筋肉と血管がぞっとするくらい浮き上がっている、まさに今握力が掛かっている引き締まったディミトリの手首を、たら、たら、と伝わり、腕を伝って、ディミトリの尖ったひじから、ぽた、ぽたと落ちた。

その時の爛々とした瞳、ぞっとするような笑顔ときたら!

あのべそかきの意気地なしのディミトリが。

売り場の長でありながら、休憩中にまで炊事場のおかみに命令されて荷物運びみたいに野菜の樽を運ばされているディミトリが。

よく近所のこどもにもいたずらされて後ろから叩かれては頭を掻いているディミトリが。

休憩中の中年女どもに下品な冗談を言われて言い返しもせず真っ赤な顔して逃げ出すディミトリが。

そしてディミトリは、筋肉質に引き締まった、浅黒く、長く、太い、見事な腕を思いっきり振り払って、風圧で手に残ってこびりついたジャガイモの残り汁を向こう側の石畳に思いっきり叩き落とし。

いつもと全く違う、腹の底から湧き立つたような、とてつもない野太い声で、吠えた。

「ヨサック!…話がある!ついて来い!」

ディミトリは、ずいずい歩いて、後ずさりするも動けなくなったヨサックの脇に、ぐい、と自分の、芋の汁でベトベトの片腕を回し、ヨサックの上半身をがっしりと掴み抱えるようにして、ずるずるヨサックを引き摺りながら、中庭の作業場をつっきって奥の方に消えていった。


全体のもくじ(単話でも、好みの章のみでも、楽しめます)



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