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1-10 女主人、下僕に完敗する ~小説「女主人と下僕」~敗戦奴隷に堕ちた若者の出世艶譚~
マーヤはしょげていた。
(周囲も口々に言っていたし…ディミトリさんはわたくしのことを…淡い感情にしても、それなりに好いてくれているのかと思っていた)
(わたくしも、たとえばもし、ディミトリさんが将来いつか市民権を取って…私を好きだと仰ってくれるなら…なんて図々しい妄想をした事もある…)
(商談室でも、あんなにわたくしの事を心配して、私に幸せになって欲しいと言ってくれた)
(だが!いくらなんでも…あのタイミングで何もなしとは…ディミトリさんは私のことが嫌いなのか?)
(きつい性格を見せてしまったので幻滅された…?それは充分過ぎるほどあり得る...無理もないわね…)
(単に正義漢なだけでわたくしにはそもそも興味がない…?)
(他に好いた女性がいる…?それも充分にあり得る...)
(…そもそもわたくしにはやはりふつうの女と比べて魅力が無い…?)
そう。
マーヤは自分に全く自信がなかった。美人だと褒めてくれる人は多いが、街で美人と呼ばれる女性は美しい金髪で鼻も背も高くすらっとしており、自分と似たような、どうにもこうにもこどもっぽい顔の真っすぐな黒髪の女など一人もいない。つまり美しいと言うのは大ウソの世辞で、ただ外国人が珍しがられているだけだろうとマーヤは心底思っていた。
また、マーヤは自分の身体の方にすら全く自信はなかった。確かにマーヤも、一般的に言って自分のような女性的な身体つきの女はもてるらしいと、うわさには聞いたことはある。だがそもそもマーヤは面と向かって胸を褒められたことなど 生 涯 で 一 度 も な い のである。
なぜって上品な服装の身持ちが硬そうな身分の高い女に、たとえ冗談でも、面と向かって「胸が大きい、そしてそれは性的な魅力がある」と褒める年頃の男などいるはずがあろうか。また仮にマーヤにそんな事を言った者がいても「悪意で思ってもいない暴言を吐いた」風にしか理解できないであろう。(実際に先日にヨサックが悪意で口にしたが、あれで自信を持てる訳もない)
人々はマーヤの胸から目を逸らして常に一言も話題にのぼせず「存在しないもの」として扱うのだ。
いつもマーヤのありとあらゆる身体の線をいやらしく褒めまくるザレン爺にしたって、思い起こせば、マーヤに面と向かって、胸にまで言及した事は今のところは、ほぼないのでは無かろうか。そしてたった一人、ザレン爺に褒められたからと言って「大多数の若い男性にわたくしは人気があるはずよ、だからディミトリさんだって私に興味くらいはあるはず」と思い込める訳があるだろうか、いや、いや、無理である。
(やはり私は女としての魅力に欠けるのだろう。相当嫌われるような酷いこともディミトリさんにはたくさん言ってしまった。)
(もういまさらだとは思うけれども、いったい、どうやったらディミトリさんにもうすこし女として好かれるのだろう…どういう努力をすれば…)
ーーーー
それから2週間ほど経った時のことである。
マーヤは悩みに悩んだ末に、ほぼ諦めの境地で、ザレン茶舗に現れた。
いつもよりは、かなり踵が細く高い靴、ハイヒールを履いて、いつもなら決して着ないような、胸をやや広めに開けた、いつもよりやや身体にぴったりと沿うような、色もいつもの白や灰色ではなく、マーヤとしては冒険の、灰色がかったピンクの柔らかいブラウスを着て、ディミトリが忙しくない時間を狙って、ザレン茶舗の前に立ったのだ。
服屋の店員に「上品さを残しつつも、なるたけ色っぽく」と繰り返し念を押して選んで仕立ててもらった服である。正直、もっともっと、ずっと派手なデザインや色ばかり薦められたのだが、やはり恥ずかしくて、結局はふだんとたいした違いのない、薦められた中でも一番地味な服を選んでしまった。
それでも、マーヤとしては精いっぱい色気を出したつもりだった。
(ディミトリさんに他に好いた人がいるならどうしようもない、諦めるしか方法はない。でも、悪あがきだけどせめてすこしでも綺麗だと思われたい。そしてせめて、わたくしの恋は実らないにせよ、すこしは良い印象で、いつの日か、ふと、私の事を思い出して欲しいの…)
だが、マーヤはザレン茶舗に入る勇気がなかなか出ない。
(ディミトリさんの顔が見たい。けど、迷惑だったらどうしよう!必死になって、浅ましい服を選んで着ているのがばれて、失笑されたらどうしよう!…いえ、今日はザレンの爺様に会いに来ただけだって、そういう素振りで、その、ちょっと挨拶するぐらいなら...特別ご迷惑には、ならないのでは…)
マーヤはやっと決心して、普段履いたこともない、ちょっとぐらぐらする靴の細い踵を小さくコツリと鳴らして店に入った。
ーーーー
ディミトリはひさびさのマーヤを見て、挨拶しながらも、どきっとした。
いつもと雰囲気が何か違うのである。涙をたたえたような、ほんのり潤んだ瞳で、声も幾分震え、いやにしおらしい、悲し気な表情なのである。
しかも、どうもマーヤのやわやわにてんこ盛りに盛り上がる大きな胸がいつもよりさらに...非常に....悪目だって見える。普段のまがまがしいばかりの目のやり場のなさが、さらに犯罪的に強調されているような。
目で追うと、足取りもふらふらとどこか頼りない。
店も非常に空いた時間だったので、二階のザレンの部屋に向かって階段を登り、マーヤを、ディミトリは追いかけた。丁度階段の踊り場で追いついたディミトリはマーヤから顔を背けながら言った。
「マーヤ様...なにやらふらふらしているような。お身体の具合が悪いのでは?せ、せめて二階までお送りします」
「!!!」マーヤは真っ赤になった。
(慣れない踵の高い靴など履いてふらふらしてるのがばれてるわ...!恥ずかしい...!)
「あ、いえ、ごめんなさい、大丈夫、大丈夫だから...キャァツ!」
その瞬間、マーヤは、バランスを崩して、バンザイしつつ大きくお辞儀するような感じで、2本の脚をやや開いて、両ひざを真っすぐ伸ばしてかろうじて立ったまんま、上半身をよろめかせて、階段の踊り場の壁に、大理石のタイルに、ぱちんと盛大に両手を付いた。
壁に白い両の手をついて、うなじを見せて頭を下げて、思いっきり左右の尻を付きだして、ねっとりとした光る白肌のふくらはぎを見せ、細い踵のハイヒールをぷるぷる震わせているマーヤ。長い黒髪が、揺れる乳房とは違った方向に左右に揺れる。
みっともなくつまずいてかろうじて壁に両手を付いて踏みとどまっただけの、滑稽な姿勢だが、見ようによってはその妙な蠱惑的な痴態に、ディミトリは息をのんで目を見開いてただ見つめてしまった。
ディミトリの運動神経なら、ふつうの相手なら、両手を付く前にすかさずサッと手を差し出して助けられたのだが、マーヤを意識しすぎて、一体全体この体中やわやわもちもちのどこを支えれば失礼に当たらないのかとっさには判断できず、呆然としていたのだ。
「あっ...あの...ディミトリさん...手を...た、助けて」
「...!ごめんなさい!ごめんなさい!」
ディミトリは慌ててマーヤのもちもちと冷っこい白い両手首だけをこわごわ取った。とても支えたり抱きかかえたりする勇気が出ない。
マーヤはマーヤで恥ずかしさの頂点で涙目で声も出なくなっていた。
(私ってばみっともないにも程があるわ...!こんな靴!こんな靴!履いてこなければ良かった...!)
ふたりとも、もう真っ赤どころの騒ぎではないほど動転している。
「...!マーヤ様...足は大丈夫ですか...?歩けますか?捻りましたか?なんだか痛そうなご様子ですよ?そうだ、ザレン様の書斎に薬箱もございます。わたくしの両手の掌に、御手で、思いっきり体重をかけて下さい...ゆっくり一段ずつ、階段を登りましょう...そう...」
いつものブラウスと違って、灰ピンクの柔らかいブラウスの胸の開きがやや広いうえにマーヤの胸のボリュームが過剰すぎるので、近づいてマーヤの手を取ると、長身のディミトリからはねっとりと白い光るような肌理の胸の谷間がいやというほど見えてしまう。
ディミトリはこのままではそっちを見たら自分がいかがわしい所を覗き込んだのが絶対にバレてしまうと思いっきり上を向いてマーヤから目を逸らして歩いた。だがそれを見てマーヤの方は全く違う風に思った。
(やはりあの一件以来、ディミトリさんはなんだかよそよそしいわ。私は、今日ディミトリさんに1、2分逢うだけのために!何時間も悩んで、服まで選んで、ここに来たのに!今日はディミトリさんは私の顔すら見てもくれない…!でも、ディミトリさんのせいではないわ。私が生意気な事ばかり言い放ったからよ…)
マーヤは真っ赤な顔のまま、目を潤ませてしょげていたが、ディミトリは何一つ、気づかなかった。
ザレンの書斎にディミトリはマーヤを連れて行った。
ーーーー
「でくの坊め!お前ッ、足をくじいたマーヤ殿の腕を引っ張って階段を登らせたのか!抱きかかえてお連れすればいいだろうが!何のための馬鹿力かッ!」
ディミトリは下僕ではあるが、ザレン爺は普段はディミトリを家族同然に、いやむしろ、異常なまでに可愛がっている。
その爺が見たこともないような剣幕でディミトリを叱るのでマーヤはびっくりした。
ディミトリがもぐもぐいう。
「え、あ、その、触れてはいけねえかと」
「...触れてはいけないだとッ?」
ザレン爺がますます不愉快そうな顔をする。
「見ればわかるだろう!お前が、礼儀を尽くしながら抱き上げたぐらいで、マーヤ殿がお前を不快がる訳があるか!...きちっと女性の全身を観察して、嫌がってるか、そうでないかどうかぐらい、ちょっとは見当つけろ!どうしてもわからんほどクソ馬鹿なら、せめて直接面と向かってマーヤ殿にお尋ねするんだな!...まったく!...イライラする...おっと!マーヤ殿、済まんかった済まんかった!んん?大丈夫か...ほれ、おいで。よっ...と!」
大柄なザレン爺はすたすたマーヤに歩み寄って、老いた自分の腰をかばいながらも、軽々とマーヤをお姫様のように抱き上げてソファーに載せた。
そして大きな体をかがめて、生まれたてのひよこをそっと持ち上げるかのように優しく、パールベージュのハイヒールに包まれたままのマーヤの両足を、自分の皺だらけの大きな両手で持ち上げて、撫でさすった。
「くじいたのか?痛かったろう、おおよしよし、お、なあんだ、なんの大したこともないよ。湿布でも貼ろうかと思ったが、薬箱を出すまでもない、おそらく捻ってすらおらんよ、これなら10分もすれば何ともなくなる」
マーヤはザレン爺の、マーヤの足を撫でさする行為は、ちょいとずうずうしすぎるような気もしたが、ザレン爺のことは昔から、内心妙に嫌いではないのと、なにより戸口でしょんぼりしながらそっと立ち去ろうとしているディミトリが気になってしょうがない。
マーヤは必死で取り繕う。
「あのっ、あのっ、ディミトリさん!私ほんとうに助かりましたわ!本当に嬉しかったですわ!ありがとうございました!ありがとうございました!」
「...」
ディミトリはまた真っ赤になって俯いた。
「...とんでもねえです...」
だがその直後、やっと意を決したように、今度は、今日初めてマーヤの両目を黒い瞳でしっかりと見つめて絞り出すように、しかしはっきりと
「...さっきはすいませんでした...!」
と言い、そしてまた恥ずかしそうに目を逸らして、飛び跳ねるようにして階段を駆け下りていった。
ザレンは気に入った腕時計の手入れでもするかのように、マーヤの足から薄いパールベージュのハイヒールを脱がせ、一本一本の指を引っ張ってほぐしたり、足裏を親指で指圧したりしている。
「なんというちっちゃな足指か!こどものような足だの!愛らしい」
「あ、あの、ザレン様」
「なんだ」
「...そんなことまで、あの、大丈夫です」
マーヤは顔が真っ赤になってきた。
「...嫌か?...お前の顔はそう嫌がっているようには見えんが?」
「ああああの、正直なところ、気持ち良うございますけど...そのっ、足ですよ?汚いです、御手が汚れますわ」
「何が汚いものか、嫌でないなら邪魔するな」
マーヤはどうしていいやらわからない。
「あの、ザレン様」
マーヤはされるがままに足を揉みしだかれながら続けた。
「なんだ」
「...ディミトリさんをあんなに叱らないで下さいまし。本当に...本当に良い方です。いつも親切にしていただいてるんですの」
「わしはお前さんのためでなくディミトリのために叱っとる」
「はっ?」
「...まあ、あそこまでではないが、わしもあいつよりずっと若いころは似たような意気地なしだったんでな...心底イラつくんだ...どうしてあそこまで意気地なしなのか...」
「あのっ、私、存じております。ディミトリさんは、けっして意気地なしなどではありませんわ...気弱そうに見えるけど、その、わたくしが困っている時には男らしく助けてくださる方でございます」
「知っとる」
「でもいま意気地なしと」
「最ッ悪に意気地なしだろう。お前に対する態度が!優しく抱き抱えて連れて来れば、その間が、お前を口説く最高のタイミングだったのに!しかも触り放題。...ったく、まーた何も言えずに逃げよって!」
「...!」
マーヤは真っ赤になって絶句した。
「...ち、違うと思いますわ...たしかになんというか...ある意味では大変慕って下さって頂けているかもしれませんけど...たとえば..お姉さんとか、妹みたいな....私なんぞ...到底、女としては見られていないかと...」
マーヤは先日の商談室での、とてつもない肩透かしを思い出して、さらにだめ押しで、ついさっきとんでもなくみっともない姿でけつまづいたのを至近距離で見せてしまったことも思い出して、諦めの、虚ろな表情で虚空を見つめた。
「ぷっ、ははは!...そんな風に思ってるのか!...そんなわけあるかい。」
「あ、あの」
「どうした」
「先日の件...ご存知ですか?」
「知ってるも何も。ディミトリが吠えた件だろ。お前のおかげでヨサックからの利益が潤って潤ってウハウハだわい。いいタイミングだった。じっくり泳がせて置いたのは正解だった」
なんだかんだで、ディミトリが口に出さなくてもザレンは全部解っていたのだ。
「ディミトリさんが、まさかあんな...とても思慮深い方で...正直、驚きました...その...まだ頭の整理がついておりませんけれど。...それで、あの、へんな話ですけど、わたくし...亡命してきましたでしょう?...親族郎党すべて、領地や財産を失うだけならまだしも、死んだほうがましだったような目に遭った者もたくさんおりました...」
「...まあ亡命してきたって事はそうだろうな...」
ザレン爺はあえて一言もマーヤを慰めず、ただちょっとマーヤから目を逸らして、さっきからいじくっていたマーヤの両足を、痛々しくも愛らしいものをいたわるように、自分の乾いた大きな手で、ただぎゅっと包み込むように握りしめた。
「わたくしの一族は学者が多くて他人からは頭がいい人々みたいに尊敬されて居りましたし、人間的にも立派な誇り高い人々でしたけれど...一族にはディミトリさんみたいな、その、生きるためのしたたかさのある者など、ひょっとすると、一人もいなかったような気すらするんですの。もし、わたくしの一族に...ディミトリさんのような方がたった一人でもいらしたら...わたくしの一族は、あんな、ひ、ひと思いに殺された方がマシなような、辱めを受けるだけ受けた上で、みじめな思いで死ぬことは無かったかもしれない、なんて、思うんですの」
「あいつ、気の小さい、素直なだけのアホに見えて...若い男にしては中々腹黒いだろう。あのしたたかさ...いいだろう...ちょっとこう、ムラムラしないか...?ん?...わしと顔が似てるだけじゃなくて、あのしたたかさが気に入って、わしも奴隷市場からあいつを拾ってきたのさ...」
マーヤはザレン爺の言い方にすこし頬を染めて顔を背けるようにしながら、答えた。
「腹黒いなんて、そんな。...でも..わたくし、産まれてはじめてですの...ああいう次元で生きておられる若い男性がこの世にいるって知ったのは...しかも…思い起こしてみれば、この世の大人の世界には、ふつうにディミトリさんのような方々がものすごくたくさんいらっしゃる…なのに、その事にただ、私だけが浅はかで、今まで気づかなかっただけ…しかも、自分のような鼻っ柱の強い勝気な女が、まさか若い男性にお説教されて...こんなに気持ちよく...完敗できるなんて」
「なあおまえ、...あいつの事...嫌いではなかろ?近いうちにあいつに自分の力で稼いだ金で市民権を買い取らせ、この本店の正式な売り場頭にさせる。それでも身分違いも程があるのは分かっとるが...ま、どうか今のうちに考えてやっておいてくれ」
ザレン爺はニヤリと微笑し、さらりと話を変えた。
「おお、そうだそうだ。ところで、お前にかかとの高い靴を履くコツを教えてあげよう」
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マヨコンヌの官能小説『女主人と下僕』
昔々ロシアっぽい架空の国=ゾシア帝国の混血羊飼い少年=ディミトリは徴兵されすぐ敵の捕虜となりフランスっぽい架空の敵国=ランスで敗戦奴隷に堕…
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