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6-1 上 俺が本気になったらご迷惑ですか ~小説「女主人と下僕」~敗戦奴隷に堕ちた若者の出世艶譚~


午前の6の刻。夜は明けたかどうか、まだ早朝という時刻である。

ディミトリがマーヤの家にはじめてやって来てすぐ帰ったあの日から三日後。

マーヤは、馬の足音がしたあとに戸口が控えめにノックされたのを、寝室で夢うつつで聞いた。

早朝でもあるし、ネグリジェのままなので普段なら居留守を使うところだが、ひょっとして、という思いでそろいの薄いシルクのガウンを羽織って階下に降りて扉の覗き窓を見ると果たしてそれはディミトリであった。

「ど、どうされましたの?とにかく...そっとお入りになって。嬉しい...嬉しいですわ。」

マーヤは小声だが嬉しさがにじみ出る声で言った。

ドアが開くと、淡いすみれ色のシルクのネグリジェ一枚と、そこにおそろいの淡いすみれ色のシルクのガウンを羽織っただけのマーヤが、長い黒髪を片方に垂らし、大きなおでこと黒目がちな瞳をきらきらさせて微笑んである。

ディミトリはマーヤの天女のような愛らしい姿に...しかし明らかに就寝時のしどけない姿に...かなり動転したが、とりあえず目を上に背けるようにしながらも家に入った。

上からおそろいのうすいスミレ色の薄手のシルクガウンを羽織っているとはいえ、おそろいのうすスミレ色のネグリジェの下にはおそらく下着は纏っておらず、どうも身体の線がいつもと違う。

「申し訳ない...お見せしたいものがありまして...夜が明けるのを待ってたんですがいくら何でも早すぎました...」

いつもの服ならば、ドアの中に入った時に抱き合ったかもしれないが、お互いについ遠慮して、恥ずかしそうに目を合わせて笑い合うだけであった。

「何を仰るの、大歓迎よ?ね、朝のお茶とか朝ご飯とか召し上がった?二階の私の部屋にいらして。朝に飲む予定のお茶の用意があるから」

ディミトリがマーヤに連れられて二階に上がると、そこはかなり広い一室で、入ってすぐの場所には、2人がけの、豪華だが小さめのテーブルが置いてあり、紅茶ポットと、ガラスの帽子のような形の覆いをされた、パンと丸鶏をぶつ切りにしたもの、などの朝食の用意が置いてあった。

「お疲れになりましたでしょう」

そう言って、マーヤはまだぬるいやかんの水でタオルを湿らせて、椅子に座らせたディミトリの前に立って、そのタオルで丁寧にディミトリの顔や首筋、次に両手をぬぐった。

薄菫色のネグリジェごしにふるるんふるるんとマーヤの身体が揺れる。

しかもこの薄菫色のシルクの夜着を纏った天女のような女は、さらにディミトリの座る椅子の前の床に両膝をついてひざまずいた。

「この部屋ではどうぞ靴は脱いで室内履きに履き替えてゆっくりなさって」

床に膝をついたマーヤは、当惑しながら椅子に座るディミトリの靴を脱がせ、黒鉄の錆びたにおいのする敗戦奴隷の首輪をつけたこのいかつい男の足を、足の指の股まで、丁寧に土埃をぬぐったのだ。

「なっ...!なんてことを...」

「あ、あら、ごめんなさい、お嫌でした?」

こうやっていると今のマーヤは、まるでお伽話にでてくる、やさしいやさしい東洋の女、徹底的に男にかしずくという不思議な伝説通りの東洋の女そのものに見えて、ディミトリはおもわず尋ねた。

「シッ、シーナの国では、男には女がこういうことまでしてやるのがふつうなんですかい?」

「え!まさか!え、ええっと...お母さんがこどもにやるならふつう、かしら?ごめんなさい...目の前に拭くものがあったから丁度良いかなと。そうね、馴れ馴れしかったですわね」

マーヤはキョトンとしたあと、ちょっとはにかんで微笑った。

対するディミトリはまた真っ赤になってしまった。

「いやっ、違うんです、すごく嬉しいです…っ…ただあんまりにも恐れ多いもんで尋ねただけで…っ」

「これですっきりしましたでしょう?まずはゆっくりなさって。お湯を沸かしますわ。とりあえずそこにある鶏とかミルクとか、なんでもご自由に召し上がっててね?多分お台所にまだハムやらパンやら何かまだあるはず。取って来ますわ!綺麗なお手拭きも」

要するにここはマーヤの寝室兼書斎でありプライベートの部屋であり普段の生活の場なのである。

違う角には美しい書物机と本棚、別の場所にはソファー。そして…奥には大きな天蓋付きのベッドがある。

さっきまでマーヤが休んでいたと思われるベッドを見てディミトリは鳥肌が立った。

ハムやらチーズやら、ふきんやらを取ってきたマーヤはいそいそとお茶の用意をした。

(いやいやいやいや、ここは、奥にはどでかいベッドがあるから、確かに、その、し、寝室といえば寝室だけど…書斎でもあり...マーヤ様の自室な訳で...ち、朝食と!お茶の用意があったから!ここまで呼ばれただけだ!変なことを考えてはいけねぇ!)

女主人と下僕6-1トラ

動転しながらディミトリは言われるがままに朝食を食べ始めた。

「あ…すごく旨い!ふつうの鶏と少し違う。魚醤…ですか?」

「隠し味程度なのによく分かったわね!さすが茶商ね、繊細な舌だわ。ほんのちょっとシーナ風にしたの。熱いうちに紅茶も召し上がって」

紅茶は安価だが鮮度のいい、フリカ大陸産の、若く青い草と灼けた大地のような匂いのするケーニャ産の細かい葉で、うんと濃くしてミルクを思いっきり入れてあってとても美味しかった。

「旨いです」

「私、ディミトリさんの食べっぷり、大好き。なんでもおいしそうに食べて下さって見ていて気持ちがいいわ」

「いやっ…マナー知らずで…申し訳ない」

「もう、謙遜しないで!ふたりっきりなんだから骨付きの鶏なんか手づかみでガリガリしゃぶったって構わないのよ。実はわたくし家では骨の周りのお肉を手づかみでこっそりかじってるの。シーナの国では骨の周りが一番おいしいって一番大事にするのに、ランスではナイフで取れない部分は平気で棄ててしまうのよね、勿体ないわ」

「え!マーヤ様がかい?確かに俺も昔から肉は骨の周りの方が旨いと思ってたが、まさか」

「そうよ?こうやってネコみたいに齧ってますわ」

そう言ってマーヤはかわいらしく両手で摘まんだ手羽を齧って見せた。ディミトリの緊張は一気にほぐれた。

「マーヤ様!ホラを吹くのもいい加減にして下せえよ。そんな事仰るなら俺ァ思いっきりめちゃくちゃやっちゃいますぜ?」

「ぜひ。無作法なディミトリ様がすごく見たい。きっとその方が素敵よ」

ディミトリは悪戯っけをおこして、浅黒い精悍な顔と黒い瞳にいたずらっぽい笑顔を表してマーヤを見つめたまま、二杯目の紅茶にどばどばミルクを入れたあとそれでもかなり熱いというのに骨ばった長い指を突っ込んでかき混ぜ、紅茶で濡れた指を口でちゅうと吸って、マーヤに目線をくれたまま冷製の鳥の骨を手掴みでガリガリボリボリと軟骨の部分まで齧った。

「ほうれ、どうでぇ。南国の猿みたいで幻滅するでしょう?自由にやっていいんなら俺はこれくらい礼儀知らずですよ。全く…マーヤ様は本当に酔狂なお人ですよ。こんなお猿さんを家にまで入れちまうなんて大間違いだったわ、ってさすがに後悔して来たでしょう?」

「ううん...なんだか…色っぽくて...ドキドキするわ...」

童顔のマーヤの顔に似合わぬ予想外の返事に、うぶなディミトリはうろたえて、返事もできずにただ顔を背けて首筋まで真っ赤になったのは、言うまでもない。

ディミトリが食べ終わったころ、マーヤは紅茶を注ぎたしながら尋ねた。

「ね、ところで、ディミトリ様...こんな朝早く、いえ、大歓迎ですけども、ひょっとして何かございましたの?」

ディミトリは2通の書状をマーヤに渡した。
ディミトリの顔に緊張が走った。

「これを、見てほしかったんです」

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