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誰のものか
筆者のサイト『漆黒斎の庵 - 戯言集』に2003年11月23日付で記載した記事の転載です。
未校正で放置していたものを一部補っています。
死は誰のものなのであろうか。あるいはこう問い直してもよい。「死を経験するのは誰か」。
人が死ぬ、というのは具体的個別的な事象である(*1)。にも関わらず、人はそれを自らのものとして経験することは出来ない。
であれば、誰かが死ぬ、というのはその「死んだ」個人にとって如何なることであるのか。個人的に経験出来ないものは、その個人のものではない、と言ってしまえるであろうか。その個人に関わり合いのあった個人、団体の記憶として記録されるものであるとすると …。
二人の外交官が他国で亡くなった。外務省葬が行われている。天皇陛下からは従四位が追贈された。所謂殿上人である。この時点で既に、死は個人の経験ではないことは明かである。死の意義は常に外からやってくる、ということである。
国家や省庁にとっての意義であり、個人史の中での位置づけでは決してない。社会に生き、死ぬ、ということとはいったい如何なることであろうか。
*1:死の判定基準についてはここでは触れない。
言うまでもなく、脳死の問題、宗教的な問題、物理化学的過程としての死と「人が死ぬ」ことの意味がが全く重なることはない。