西原真奈美さんの詩『切っ先』に寄り添ってみる

○(第1連)
「押し返してこないものを/安心して 壊す」…破壊衝動みたいなもの?「押し返してこない」無力なものに対して、〈わたし〉は「安心して」とある。「壊す」という行為に対する“恐れ”があるのでしょう。
「半透明に煮くずれた/かぶのように」…比喩に“家庭的なもの”を感じる。そしてこれが〈わたし〉の姿とすると、「煮くずれた」というのは“壊れかけた”に通じるし、「半透明」というのも何やら曖昧な、はっきりしない、“心の薄さ”とか“弱った心”を想起させる。つまり、心が弱りかけている〈わたし〉に対して、〈わたし〉自身が攻撃する。本当は他者に向けたいのに、決して反発されないから切っ先を「安心して」〈わたし〉に向ける。

○(第2連)
タイトルでもある「切っ先」についての表現。
「ほんとうは丸い月の/欠けて光る 切っ先」…刃物は「ほんとうは丸い月」という全体像であったが、「欠けて光る」というように怯えを感じさせ、そこからためらいが生じたのでは。思い切ってグサッと行かずに。
そして「ためらい傷」につながる。

○(第3連)
「りんかくを失うとき/臨界をこえてしまった」…シンプルに、“我を失って限界を超えてしまった”と。
「その怖さを忘れて/切っ先のかたちを覚えているのは」…単に“記憶している”というよりも、“実際に切っ先をあてがって”、体の一部(例えば手首)が痛みを覚えているということでしょう。

ちなみに「切っ先」とは、“刃物の尖った部分”。そのような鋭利な最も怖い部分を「覚えている」という神経はある意味で狂気。でもそれは「わたしじゃない ってことも」とある。切っ先に傷をつけたのは〈わたし〉であって、〈わたし〉じゃないし、傷をつけられたのも〈わたし〉であって、〈わたし〉じゃない。一種の人格の乖離とも取れるが、「わたしじゃない」と「ってことも」の間に一語分のスペースがあることから、読んでいてなんとなくホッとした。自らをしっかりと認識しており、病的なものは感じられない。

○(第2連)
「うすずみのためらい傷は/わたしには 見えない」…第3連で人格乖離的なことを示唆したが、〈わたし〉に傷をつけた〈わたし〉は「見えない」と言っている。無論、本当は傷つけているし、片方の〈わたし〉は「切っ先のかたちを覚えている」。

※「かぶ」や「丸い月」といった、およそ狂気とは無縁のものを介することで、自らの危うさから少しでも距離を置こうとする心境が察せられる。「うすずみのためらい傷」というのも、本来なら生々しいはずの傷を「うすずみ」という色合いで消し、モノクロ写真のように過去に葬ろうとする意図すら感じる。

荒んだ〈わたし〉を少しでも宥めようとするかのように並ぶ詩の言葉・世界もまた、本来であれば殺伐とした景色が広がる〈わたし〉の姿を後退させている。でも逆に、それほどギリギリの状況だったのかもと想像してしまう(詩の短さも含めて)。


⚫️この詩には、あやうさを感じてしまいました_。
詩人の経歴を「出版記念会」で知りました。読んでいて私生活の苦労が思い出されたこの詩、詩人の偽らざる実体験を色濃く反映したものではないかと。でもあやうい〈わたし〉を一編の詩にすることで、自らと向き合い、対決、時間はかかったものの乗り越えたのでしょう。
そしてこの詩を第一詩集に載せるというのは、とても勇気のある決定だったように感じました。思い切った決断だったように思えました。パーソナルなものの中でも、暗くて、かなりデリケートなナイーヴな詩で、表題作や『父 サンサシオン』、『オラシオン 夏の庭』とは明らかに肌合いが違うものですから。

※今回も誤読、曲解があるかもしれません。ご容赦のほど。


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