詩誌『アンリエット』の峯澤典子さんの詩『一通』に寄り添ってみる
○(第1連)
この始まりで、この詩の命題が明示される。詩のなかの〈私〉は、“待っている”ということが示される。
○(第2連)
まず「乞う」と、強い意志で始まる連は、手紙の送り主と送り先のことが書かれる。「とじる 瞼の」は、希うときに瞼を閉じる、祈るようにして。
「あおい鷺の野を そめる/こゆきの」。訪れる冬の美しい情景が思い浮かぶ。こゆきが白いので、鷺の白さはトーンを落とすように、「あおい」と形容。実際、鷺という鳥は少し灰色がかった青さの、暗めの白。
そしてこれが送り主になるのだが、清らかで美しいけど、もの悲しさが漂う。しかしその願いは「こゆき」という“音のない音”を立てながら、まんべんなく、いつまでも降り続けるような。仄かな願いではあるが、ずっと、いつまでも静かに思っているような。
送り先は「どこにもいない人」。“どこにもいないけど、どこかにいる”というような微かな期待があるのでしょうか。
「吐く息の アルファベ」とは、〈私〉の知らない人が話す何か、それは言葉という確かなものと想像できない、文字の連なり。その風合いを〈私〉は感じるだけ。
○(第3連)
「くちびるの インク」の「くちびる」。身体の、きわめて直截的な言葉で表す。淡い色調の詩世界を通して、ここだけがはっきりとした色で迫ってくる。心に直結するような強い意志を感じる。でもそれは「しろくとざされた空の」、つまり〈私〉の胸にしまったまま。そこに結局ははっきりと表すことができずにいる(「弱い点字」)、途切れ途切れにあると。
○(第4連)
「一生 人に貸したままの」は、“返ることのない、届かない”という状態。それは「一冊のみずうみの底の/見返しへ」という。「貸した」ということから、ものは貸してしまっていても、胸の内には残っている。つまり記憶や思い出として。しかも「みずうみの底」の「見返し」とあるから、“深さがあり、昔日”を感じさせる。「一冊」とあるから、複数の、それも“かけがえのない思い出たち”でしょう。思い出というのは、自分のものとして大切に保存しているものの、所詮は過ぎ去った日々のことだから、空しさや未練を抱く。その心模様を「人に貸したまま」と言い表したのでしょうか。で、「見返し」はそれとは別の心模様、複雑な胸の内。
そこに「いちばんやわらかな/数文字が 落ち」る。「数文字」とは第3連の「弱い点字」でしょう。本心の吐露であろうそれは、とてもデリケートでパーソナルな言葉であり、〈私〉にとって“いちばん大切にしている言葉”が思い出に結びついたとき、なつかしい、あたたかみが胸に灯った。“なぐさみ”といえばそうに違いない。でも〈私〉はそれを“よすが”としたいと(それは頻出する「〜の」止めに、何かに引っ掛かろうとする切実さのようなものを感じるから)。
そして、束の間「冬の/幕間 となる」。ひとつの“区切り”みたいなものか(でも待つのは決してやめないと、強い意志を詩の言葉でわずかに表している)。
⚫️ どこにもいない、どこかにいる“待ち人”に手紙を、一通 出した。
希う胸の内は淡々としていて、もの悲しい。仄かな願いではあるが、ずっと、いつも思っている。デリケートで、パーソナルな言葉を綴った手紙は、不意に、かけがえのない思い出に感応した。
返事はけさも来なかったけど、冬のさむさ、静を、孤を、淋しさを少しだけなぐさめてくれた。
⚫️ 孤であり、静であるさむい冬。ふと兆した仄かな温かみのうちに、胸に灯った懐かしい言葉の長いひと息が、束の間、虚空にしろく立ち上る。そしてすぐに消えるような。
⚫️ そもそも〈私〉は手紙を出したのであろうか。
「手紙」ではなく「一通」というタイトル。ここから引き出せるのは、“待つ”という行為により意味があるような気がする(実際には投函しているのだけれど)。
⚫️ この詩は、詩誌『アンリエット』の巻頭を飾るにふさわしい一編。表紙の写真に呼応して、どこかにいる“待ち人”との再会を希いながら、“かけがえのない思い出”に触れるように、離れたところから“世界”を眺めている。しかも、「湖底に映れされるシネマのように」という副題に、「みずうみの底」という言葉でつながっている。
⚫️ 詩の調べとして、「〜の」止め(「瞼の」、「こゆきの」、「ふゆ、の/くちびるの」等)が好かった。余韻というゆとりとは正反対の、希う思いがのった切実さのようなものが感じられました。詩世界の静に足して、ここだけが動、寒に対しての熱のようなものを感じさせました。そして読んでいくさなかの律動に、高揚感を喚起させるようなアクセントとなっているのが良かったです。
⚫️ やはりわたしは峯澤典子さんの、特に冬の詩が好きです。