西原真奈美さんの詩『消印』に寄り添ってみる

○(第1連)
「花は覚えている」。この短い詩の“芯”となる一文ではないでしょうか。そしてこの一文で詩を始めることによって、プロローグとし、かつサブタイトル的な“光彩”を放つ出だしに感じられる。

○(第2連)
「書きなずむ」。物事が進まない“気怠さ”、“もの憂げさ”が漂うなかで、「そらせた花びら」という“灯火”がポッとともる。それを「切手にして」という思いつきに、〈わたし〉の胸のうちにかすかに湧き起こった、一瞬の喜びのようなものが仄みえる。

○(第3連)
「犬のいなくなった小屋」、「植え替える あるじを失った鉢たち」。どちらも“喪失”。しかも“世話をする人がいなくなった”という感慨がし、二重の“喪失”を感じさせる。

「二番子ツバメ」について。
ツバメは一年に二回子育てをする。二回目の産卵で生まれたヒナを二番子というとのこと。

それを踏まえると、「二番子ツバメを待つ巣」は素直に、“一番ツバメは巣立ち、いまは空になった巣”ということでしょう。そして、「〜にも」とあるから、「小屋」と「鉢たち」を含めて、「陽はさし」ている。“喪失”の淋しさは遠のき、“明るい兆し”が差していると。

○(第4連)
「なにも捨てなくてよいのかもしれない」。“喪失”が背景にあるこの詩。〈わたし〉は“大切なものをもう忘れてしまおう”という気持ちだったのが、いまは思い直した。それは「発てる気がした春」だから。“立ち直る”というような心境の変化の訪れ。しかも、時は“春”。
「名を呼ぶたびに」。この「名」というのは、失った人のことでしょう。第3連の“世話をする人がいなくなった”という感慨がこの詩の通底にあり、そして詩を締めくくる「今もあること」というのは、“いまもその人がいること”(〈わたし〉がそう感じている)を含めた、もっと大きな存在としてー例えばこの庭や家をも包む一つの世界―、〈わたし〉は感じる。感じられるようになった。微笑んで。

もう一度、第2連に戻ってみる。

「書きなずみながら」という言葉。こうしてみると、“失った人”を思うあまり、前に進めない〈わたし〉を表し、「そらせた花びら」というのは、たわむれに触れた花びらの無垢な生命感であり、「切手」は“きっかけ”ということでしょうか。その一枚の花びらに絆されて、庭を眺めてみれば、〈わたし〉が“なずんでいた姿”(庭)に春の陽が差していた。
そして、忘れることによって“前に進める”と思っていたけど、そうではなく。むしろ“失った人”を「呼ぶ」、しっかりとその存在を心に刻むことで、〈わたし〉は新たな一歩を踏み出せるかもしれない。この春に。

このように読むことができそう。

この第4連は、冒頭の「花は覚えている」につながる。〈わたし〉は忘れることばかりを考えてきたが、この庭の花は失った人をしっかりと「覚えている」のだと。それを気づかせてくれたのも、「花びら」であったと。そして第1連ですでに書かれている。「消すためではなく/印すための」と。

●なんとなく心が安らぐ詩。単に風合いが良いだけでなく、くぐもった胸のうちに晴れ間が差した時の感じ。はぁと、安堵感から不意に洩れた吐息の刹那が余韻のように漂ってくる詩。

こういう小品。肩の力を抜いて読めるのが好いです。
陽だまりの各駅停車の駅に降り立ったときのように。


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