詩誌『アンリエット』の高塚謙太郎さんの詩『あさきゆめみし』に寄り添ってみる
○「遠まわりした帰り道」と「どうしているのかと」が根幹。ほかは枝葉(とは言っても、花や実、葉などの、木を特徴づける大切な要素であり、魅力でもあります)。
〈私〉は空を見上げ、思いを巡らす。そして情緒を映す鏡として、空の景色が詠み込まれる。
○冒頭の「蜻蛉の」_
ただの遠まわりではなく、“何かに誘われるような”きっかけ。さらに蜻蛉の性質である“浮遊感”に、〈私〉は軽い幻惑を覚えながら、いつもと違う帰り道をゆく。鳥や蝶ではなく、蜻蛉というのが重要。また「蜻蛉の」で切って、改行している。その改行には意味があって。おそらく「の」の後に続くものがあるのだろう。それは読む者が自由に想像する“余地”としての…。例えば“羽音に誘われて”とか。
○「高架線にかぞえてみては」_
“大所高所に捉えてみては”と読んでみた。続く「いけない/いけない」。後述するけど、“〈私〉の思い”を客観視してはいけない、というよりも“したくない”という拒みなのではないでしょうか。
○「ハルシオンの夕暮れ」_
「ハルシオン」とは睡眠薬の一種。副作用により健忘症に可能性があるために、現在は販売中止。しかも“ハルシオン遊び”などという危険なゲームがはやったとのこと。詩に落としてみると、この遠まわりした帰り道が、酩酊感や陶酔感のような“夢的な”行動を表しているのではないでしょうか。
○「こんなにも雲の気性は重ね」_
ただの雲の層ではなく、「気象」。それによって、時の流れとそれに伴う雲の姿の違いが表されている。つまり〈私〉は過去に、“何度も「呼んでいるのに」”と。
○「欄干から呼んでいるのに」_
「欄干」。詩の中で蜻蛉や雲、夕暮れ、影とは異なり、“不動”。そして小さい。〈私〉のことでしょうか。その〈私〉が手の届かない高いところに広がっている空に向かって呼んでいる。その絶望的距離感。「〜のに」という語尾に“切なさ”が滲んでいる。
○「流れていく/平行層」_
「平行層」とは、〈私〉の思いが届いていない様子。“変わりナシ”ということ。「流れていく」というのも同様。虚しく空を眺める、無力感に苛まれる〈私〉の姿が思い浮かぶ。
○「どうしているのかと/横顔に風わたりつつ」_
結びの一節。この詩、何かを待っている〈私〉であり、「どうしているのかと」といった消極的な、諦めを含んだ想いを残して佇む姿が見えてくる。タイトル『あさきゆめみし』から、“想い人”のことと考えたい。
そして「横顔に風わたりつつ」という最後の文で、風に吹かれて佇んでただ待っていることしかできない姿を視覚化する。
○「また雨は」、「雨の降らないうちに」と、〈私〉は雨を気にしている。「遠まわりした帰り道」だから、天気を気にするというのは当然といえば当然だけど、それだけでなく、〈私〉がかけた“験担ぎ”のようなものではないでしょうか。つまり雨が降る前でなければ叶わないというような。
○冒頭の「遠まわりした帰り道」という衝動。誘惑、そして期待。一方で自重した方がという迷い(「雨が降らないうちに」)も。それでも「ハルシオンの夕暮れ」という言葉から、大胆になる〈私〉。結局、望みは叶わない。
⚫️冒頭の「蜻蛉の」は、この詩の世界を包み込んでいる気がします。この生き物独特の、宙をさすらうかの気まぐれな飛行。それが空模様、雲の姿、夕暮れ、影に寄り添うだけでなく、〈私〉のふるまい、心情をも表している気がします。
タイトルにある「あさきゆめみし」。“はかない夢なぞ見ない”と言っても結局見てしまう。そんな抑えきれない心の揺らぎ。誰でも一度や二度は必ずあるはずの。期待や不安、諦め。ため息とともに“やっぱり”と肩を落としそうになる徒労感、虚無感。それはどこか懐かしい来し方に連れていってくれる詩。
そして、結びの「どうしているのかと」という言葉。この詩の中で洩らす唯一の本心。この一言を綴るためにこの詩があったといってもいいのではないでしょうか。
初読みの詩人さんの作品のせいか、なかなか“指をかける溝”を探すのに苦労しました。でも綴られる詩の世界に惹かれたので、放り出さずに読んでみました。
(今回も誤読、曲解があるかもしれません)