黒い森への旅 (0) ー 出発
ドイツに来てから1ヶ月が経った。近所の勝手が分かり生活が楽になってきた反面、到着したばかりの頃のワクワクや感動が薄れてきたことも感じる。毎日同じバスに乗って大学のドイツ語コースに通い、同じ人たちと同じ食堂で昼食を食べ、同じスーパーで買い物をして帰る。そういう日が続くと、別にそんな日常に特に不満があるわけではないのだけれど、ふとどこか遠いところに行ってみたくなったりもする。
そんな気持ちをドイツ人は „Fernweh“ と呼ぶ。ドイツ語でホームシックのことを Heimweh と言うのだが、その「ホーム」に当たる部分(heim)を、対義語であり「遠く」を意味する fern に置き換えたのがこの言葉だ。なかなか的を射た表現だと思う。壁に向かって単振動を続けるバネのように、遠くに行けば家が恋しくなり、家にいれば遠くが恋しくなるのだ。奥の細道の冒頭に「そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて」というのがあったけれど、芭蕉もこんな気持ちだったのかもしれない。
だから、語学コースが終わってから大学の学期が始まるまでの一週間の休みで、一人旅に行くことにした。旅といってもそんなに大層なものではない。荷物はリュックサックとウエストポーチだけ。その中に最低限の服とカメラと身分証を入れれば準備は十分だ。あとは気の向くままに行き先を選べばよい。
パソコンで Google Map を開き、ドイツの地図を眺めてみる。Schwarzwald という地名が目に留まった。シュヴァルツヴァルト。日本語なら「黒い森」。なんだかおとぎ話に出てきそうでかっこいい名前ではないか。黒いマントを着た魔女がヒェッヒェッヒェと笑いながら大鍋で怪しげなキノコを煮ていそう、なんて考えていると、どうしても行ってみたくなってきた。幸い今僕が住むハイデルベルクからさして遠くない。
シュヴァルツヴァルトの北端にバーデン・バーデンという温泉街がある。バーデン地方にある風呂に入れる場所だから „Baden-Baden“。ただの親父ギャグだが、それを街の名前にしてしまうあたり、なかなか良い。日本を出てからまともな湯船に浸かれていなかったことも手伝って、そこに宿を取ることに決めた。
シュヴァルツヴァルトの森の中をトレッキングして熱い温泉で疲れを癒やすなんて、最高どころの騒ぎではない。でもただゆっくり町をぶらつく日も欲しいから、バーデン・バーデンで三泊ぐらいしよう。ついでに、昔から行ってみたかったシュトゥットガルトでも一泊しよう。
そうと決まれば、さっさと宿を予約し、リュックを背負って出発である。
続きはこちら
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?