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『マッドマックス:フュリオサ』グラデーションのある"狂気"とその中に魅せる「物語」

マッドマックス:フュリオサ

監督
ジョージ・ミラー
脚本
ジョージ・ミラー
ニコ・ラサウリス
製作
ジョージ・ミラー
ダグ・ミッチェル
出演者
アニャ・テイラー=ジョイ
クリス・ヘムズワース
音楽
ジャンキーXL
撮影
サイモン・ダガン
編集
マーガレット・シクセル


〈introduction〉
巨匠ジョージ・ミラー監督のもと、名実ともに映画史における新たな伝説となった『マッドマックス 怒りのデス・ロード』。
シャーリーズ・セロンが演じた「マッドマックス」サーガ最強の戦士フュリオサの怒りの“原点”を、ハリウッド最旬の俳優として熱い視線を集めるアニャ・テイラー=ジョイと、『マイティ・ソー』シリーズでおなじみのクリス・ヘムズワースの共演で描くサーガ最新作『マッドマックス:フュリオサ』。
『怒りのデスロード』での怒りの原点が描かれる。



繰り返される狂気について

『マッドマックス:フュリオサ』は『マッドマックス』世界の"狂気"のトキシックな内実をスクリーンに苛烈に映し出してみせた。
それは『怒りのデスロード』よりもさらに深化されている。
 今作ではフュリオサと彼女の復讐の原点となる"ディメンタス将軍"と共に彼らの内面の"狂気"の遷移を描いている。のだが、これが前作『怒りのデスロード』の「希望の物語」へ跳躍していくのとはとても対照的だ。
 よりグラデーションのあるエモーションへと舵を切っていく本作は、僕たち観客に安心できる心の拠り所を与えることを徹底的に拒否していると感じた。
フュリオサとディメンタスが「順応したのか?はたまた狂気に耐えきれなかったのか?」といった二元論的な疑問に対してさえもだ。

 今作のこの語り口は続編の作りとしてとてもスマートだと僕は感じた。
前作『怒りのデスロード』を踏まえながら全く異なるアプローチで進めたのはとても堅実だし、改めてジョージ・ミラーはとても秀でた作家だとひしひしと思う(なぜなら巷にはコピー&ペーストしたような量産型フランチャイズ映画が溢れているから)。

今作のメインヴィランであるディメンタス将軍(クリス・ヘムズワース)
彼の行く末もまた味わい深い。



語り継がれるべき「物語(=history)」とは?

 ジョージ・ミラー監督は神話の体系や構造に非常に興味を寄せている作家だ。考えてみれば『マッドマックス』シリーズもある種の神話として読み解くこともできる(ファミリー映画として公開された同監督の『ハッピーフィート』や『ベイブ』だってそうだ)。 
 監督のヒューマニズムに対する信頼は多大なるもので、今作『マッドマックス:フュリオサ』では
「全てが淘汰されるカオスの中、何が人間存在を確立できるのか?」
といった彼が繰り返し描いてきたテーマが究極的な形で描かれる。

 火とガソリンと鉄クズに覆い尽くされた世界において、最後のフュリオサとディメンタスの邂逅は何を告げるのか?
真に「物語=(history)」として語られるべきなのはどちらか?
 前作に続いて、さらに深化した根源的な問いを突きつけくる凄い作品であったのは間違いない。





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