私にとって休学は、最善の一手だったと思う。
今年9月に、大学を卒業しました。
2年半休学して山梨のど田舎に移住して、畑をしながら古民家に住んで、整体の勉強をして、山を買って開拓して、音楽フェスをひらいて、もう帰って来ないんじゃないかと思われかけていましたが、ちゃんと帰ってきました。
なんで山梨に移住したの?って今まで100回くらいは聞かれて、そのたびにTPOでいろんな回答をしてきたのですが、いちばん本音に近いのがこの記事かなと思います。もう3年以上も前みたいです。
この頃とは大分考え方が変わっている部分もありますが、自分の中の原点みたいな文章だなと思います。
ざっくりまとめると、「資本主義にうんざりした」ということらしいです。(笑)
今は状況も変わって、この頃の感覚も思い出せなくなってきているのですが、大学2-3年の頃に感じていたモヤモヤした気持ちはなんだったんだろうと、ちょっと俯瞰して考えることもできるようになってきています。
多分、当時の自分は、自分の恵まれた環境を受けとる価値があると思えていたかったんだと思います。
なぜか小さい頃から勉強ができたこと、受験に専念できる環境で育ったこと、お金に困らない大学生活が送れること、実家から遠い大学に行かせてもらえていること、それゆえに既得権益の強い会社に入れること、全てがありがたいはずなのに、何一つ自分の力じゃない気がして、自分の存在自体に後ろめたさみたいなものを常に抱えながら生きていたような気がします。
「自分で努力して、自分の力でここまで来たんだ」と思わないと、受け取っているものの重みに耐えられなくなってしまうような気がしていました。
大学2年のはじめに無人島でキャンプするイベントに行って、心から楽しいと思えたのは、物質的な面においてとてもめぐまれて生きてきた自分が、「こんなにもシンプルな環境でも豊かに生きられる」という事実を確認することができたからなんじゃないかと思います。
それから、休学して山梨にいた2年半、親からの金銭的な援助はなくなって、学歴も大学で勉強したこともなんの役にも立たない田舎で、はじめて生身の自分一人で生きていく経験ができました。
自分たちの手でひとつひとつ、生活を作っていくこと、地域の人たちとゆるく支え合いながらそのときその時に起こるイベントを楽しむこと、自然の中で自由に身体を動かして楽器を弾いて歌って踊ること、マニュアルの軽トラに乗って富士山と八ヶ岳の間を走りまわること、すべてが新鮮な体験でした。
昔から染み付いていた上昇志向を一切捨てて、今この瞬間を感じとって心をの豊かさを大切にする生活にどっぷり浸かるなかで、自分の心が劇的に変化していくのを感じました。
自然はみんなに平等にエネルギーを分け与えていて、すべての存在は見えないところでつながっているんだという、言葉には言い表せない神秘的な感覚に包まれる瞬間が日の日に増えていき、なにもなくても「幸せだなぁ」としみじみ感じることが次第に増えていきました。
自分自身のありようが変わると世界の見え方も全く変わってくるのだと実感しました。
幸せとは、自分が受け取っているものにどれだけ気づけるか、そして自分にはそれを受け取る価値があると思えるかどうかで決まるんじゃないかと思います。
なんとなくもうどこに行っても大丈夫だなと思ってきた時に、大学に戻ることにしました。
どれだけ今が楽しくても、自分のルーツを手放すことはできないと思いました。
自分の本質から外れた選択をしてしまったかもしれないと後悔するよりも、過去の選択を正解にするしかないと思いました。
帰ってきたら、そこは前とは全く違う「東京」でした。どこにでもきれいなトイレがあって水道があって、家があったかくて、仕事も遊びもいっぱいあって、めちゃくちゃ便利です。すべてがありがたい。ありがたいと思えるだけでどんなに狭い家でも豪邸です。
生活がありがたいだけじゃなくて、ありがたい出会いもたくさんありました。ありがたいなぁと思えば思うほど、全く想像もしないようなありがたいことが次々と起こっていきます。世界とは、そういう風にできているのかもしれません。
何かを受け取るたびに無意識に罪悪感を背負い込んでいた自分が、何かを受け取っていることに気づくたびにシンプルに感謝することができるようになってきました。
それでも東京に戻ってきてしばらくは、東京には自然がなさすぎるし、自然に見えるものも形を変えて歪められた作り物に思えてうんざりすることもあったけど、ある時ふと、自分の中で捉え方が変わる瞬間がありました。
人が作ったもの、歪められたように見える自然もすべて、形を変えた自然のエネルギーなんだと思ったのです。
そう思ったとき、今の都会での生活のすべてが自分を支えてくれるエネルギーに満ち溢れているように見えてきました。
どこにいても平等に自然のエネルギーを受け取っている。それに気付けるかどうかも自分次第だったのだと思いました。
よく「2年半も休学するなんて勇気があるね」と言われることがあるんですが、本当にそうでしょうか。
何かを選ぶということは何かを捨てるということ、それはどんな選択をしたとしても変わりません。
ただ、休学という選択は、「できるだけ手放すものを最小限にして自分のやりたいことに取り組めるチャンス」だと思います。やりたいことなんてなくても、ふらふらできるチャンスです。
たとえ失敗しても戻れる場所がある、と思えるだけで私は何度も救われました。そういう猶予を与えてくれた大学にも感謝しています。
「私はいつも最善の一手を打ち続けている。今までも、これからも。」
迷いが生まれそうなとき、この言葉を自分に投げかけます。すると、どんなことがあっても大丈夫だと思えてくるし、不思議と力が湧いてきます。
そして迷いがなくなると集中力が生まれて、ほんとうに物事が上手くいくようになります。
たとえ上手く行かなかったとしても、上手く行かないということ自体が自分には必要なことなんだと思えます。
これは、「私は私を超えた何かに導かれている」ということと同じ意味です。
最善の一手なんて私にはわからないけれど、それでも最善の一手を打ち続けているのは、私を超えた何かが私を導いているということ。
こういう根拠のない確信を、信仰心というのかもしれません。もしくはギャルというのかもしれません。(たぶん違う)
最近、髪の毛をピンクにしました。
ピンクにしたら、自分の殻が破れてまた新しい自分になった気がします。
藤田ニコルが昔から大好きなので、にこるんみたいなおしゃれで仕事もできる大人ギャルになりたいなと思えてきました。
根が陰な自分はギャルにはなれないと思っていたけど、自分を制限していたのは自分の心でしかないんだなと思います。
自分が気付かずにかけていたリミッターをひとつひとつ外していった先に、未来がどうなっていくのか、とても楽しみです。
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ここまで読んでくださってありがとうございます。
上手く行けば今年度中に、今取り組んでいるビックプロジェクトの発表ができると思うので、良かったらフォローお願いします!☺︎