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わたしと祖父

2020年12月24日 クリスマスイブ
大好きだった祖父が逝去した。
84歳だった。
その日の朝、祖父が風邪を引いたらしく病院に連れて行くと母から連絡が入っており、仕事をしている最中に母から電話がきたので入院することにでもなったのかと不安に思い電話に出たら、母の口から出た言葉は
「じいちゃんが死んだから、今から病院に来れる?」だった。

風邪じゃなかったの?
死んだってなに、死にそうじゃなくって?
前にも何度か危篤になったけど大丈夫だったから今回もきっと大丈夫だよね

そんなことを考えながら病院に着き、窓口で祖父の名前を告げ、孫なんですがと伝えたら、看護師さんから
「今体をきれいにしてもらってるから、少しお待ちいただけますか?」と言われた。

体をきれいにしてもらっている

その言葉の重さにその場で崩れそうになった体をなんとか椅子まで運び、そんな状況でも祖父の姿を見るまで信じられないと、ただただ時間が過ぎるのを待っていた。

姉から着信が入り、病院の外にでたときに買い物に出ていたらしい母とすれ違った。
母の手には買ってきたばかりのおむつが握られ、目は真っ赤になっていた。
その時に、あぁ、と認めざるをえなかった。

祖父は、診察をする前までは特に変わった様子は無かったらしい。
いざ診察を、と思ったら容体が急変し、車で待っていた母さえも間に合わないほどあっけなく逝ってしまったそうだ。

その後は自分でも驚くくらいに冷静だった。
姉に淡々と状況を説明し、その後夫へ連絡を入れ、翌日のディナーの予約のキャンセルをし、看護師さんに他に必要な物はありますかと聞き買い物にも出かけた。

父の到着を待ち、父と母と私で、祖父の死亡確認をした。
母から連絡をもらって約1時間後の、12時15分だった。

「じいちゃん」
そう呼びかけて触れた祖父の顔は生気が無く、冷たく、首元はまだ少しだけ温かった。

悲しい、とても悲しい。

それでも遺族は悲しんでいる暇はない。
葬儀場の手配、親族や会社への連絡、各種手続きの用意、しなければいけないことがたくさんある。
すべての手配を終えた後、わたしは一度家に戻った。
仕事途中のパソコンや暖房、電気を消した覚えが無かったからだ。
戻ってみたら案の定すべてが点いたままだった。

出るときのパニック状態が嘘かのように、今度は冷静にひとつひとつの電源を切り、喪服や必要なものを用意し、再び家を出て葬儀場へ向かった。

親族控室の奥には、祭壇と、その奥に敷かれた厳かな寝具に包まれ、祖父が横たわっていた。
手を合わせ、再び祖父の頬に触れると、先ほど触れたときよりもずいぶんと冷たくなっていた。

その日は仮通夜で、その翌日のクリスマス、12月25日に本通夜を執り行うことになった。
その日は、わたしの27歳の誕生日だった。

祖父のお通夜を執り行う日に、わたしにはたくさんの友人、知人からお祝いのメッセージが届いていて、「生まれてきてくれてありがとう」という言葉を見ながら、生と死についてぼんやりといろんな思いを馳せていた。

今のご時世、密や会合を避けましょうという風潮があり、ご高齢の方も多いので、無理してご参列いただかなくても大丈夫ですよとお伝えしていたにも関わらず、多くの方が祖父との別れのあいさつにきてくれた。
わたしは受付を任されていたのだが、来られた方々が

「じいちゃんとよくうちに来よったがね」
「じいちゃんの姿が見えなくなるとすぐに泣いてたよね」
「じいちゃんのバイクの後ろにのってどこそこいきよったね」

と声をかけてくださり、受付をしながら幼い日の祖父との思い出を振り返っていた。

ここで言う祖父は、母方の祖父で、わたしは父、母、姉、そして祖父の5人で一緒に住んでいた。

ヘビースモーカーで酒豪

たばこを1日1箱、焼酎をストレートで毎日飲む、豪快な人だった。

両親は共働き、姉とは年が離れていたので、わたしが物心がつくころには友達と過ごしたり部活だったりで家にいない時間が多く、幼少期の多くの時間をわたしは祖父と一緒に過ごした。
元々祖父が建てた母の実家に同居するかたちだったので、実家のご近所さんは昔の名残か風習か、祖父の兄弟姉妹の家族だったり、祖父の友人が多く住んでいたので、祖父に連れられてわたしはよくご近所さんに遊びに行っていた。
家の近くに祖父は小さな山も持っており、わたしはよく祖父に

じいちゃん、〇〇ばぁちゃんちに行こう
じいちゃん、山につれてって

と、せがんでいた覚えがある。
本当は他の親戚に会いたかったわけでもないし、山になにかしに行きたかったわけでもない。

親戚や友人たちに「うちの〇〇はかわいいだろう」と話してもらうのが嬉しかった。
「〇〇ちゃんはかわいいね」とわたしが言われたときの、誇らしそうな顔がすきだった。
わたしの頭をなでながら笑う祖父がだいすきで、その顔が見たかった。
山へ行って帰るだけの散歩のような時間が楽しかった。
造園業をしていた祖父が、山へ行く道や山にある植物の説明をしてくれるのがおもしろかった。

祖母を早くに亡くしていた祖父は、昔ながらの男の人ではあったが、母が働きに出ていたこともあり一通りの家事もやってくれていた。
一緒に住んではいたものの、過ごす部屋などは別なので食事などは別でとっていた。
それでもわたしが、

お腹がすいた

というと、家にあるものでなにか作ってくれたり、自分のご飯を少し分けてくれていた。
お腹がすいてなくても、一緒に食べたくてそばにいた記憶がある。
”素材を塩コショウで焼いただけ”、"冷奴"、そんなシンプルな料理でも、
祖父とのご飯は”家族には秘密”というスパイスによって、わたしにはきっと特別おいしく感じられていたのだろう。

小さなころの祖父との時間はキラキラしていて、どれもすごく楽しい思い出ばかりなのに、その記憶は小学4年生までで途切れている。

小学校の高学年になると、祖父と過ごす時間よりも友達と過ごす時間の方が増えた。
昔ながらの頑固者の面も持っていた祖父の言動を、面倒だと思うことも増え、

うるさい
あっちいって
邪魔しないでよ
そんなの食べないよ

わたしが祖父に伝える言葉も変わっていった。

中学、高校、社会人と、成長するにつれて祖父との会話はどんどん減っていった。
わたしはそれを悲しいともさみしいとも思わなくなっていた。
22歳で実家を出てからは、顔が見れる時には声をかける程度になっていた。
祖父のことを嫌いになったわけではない。
ただもうそれが普通になっていたのだ。

大病を患い、その後腎臓を悪くした祖父は、体調を崩すことが多くなっていた。
危篤状態に陥ったときには、心の底から神に助けを祈った。
無事回復してくれたとき、その度にわたしは、今度からもっと頻繁に顔を出そうと思った。
じいちゃん孝行しなきゃ、と。
でもそれも数ヶ月もするとまた元に戻り、と、ここ数年はこれを繰り返していた気がする。

そしてつい最近、体調を崩すことが増え、軽い痴呆が入ってきていることが分かった。
歩くこともおぼつかなくなってきているらしく、家も近所だし週1くらいで顔を出そうと思っていた矢先の、今回のできごとだった。

そんな思い出を振り返っている間に、あっという間にお通夜は終わりを迎えていた。

遺影をどれにするか、という話になったときに、わたしはどうしても使いたい写真があった。
それは去年、わたしが結婚式を挙げたときの写真だ。

照れくさくて何も伝えることができなくなった祖父へ、ありがとうとだいすきをきちんと伝えたくて、お色直しのエスコート役をしてもらったときにプロのカメラマンが撮ってくれた、お気に入りの2人の写真。
そこにはわたしと手をつなぎ微笑んでいる祖父が写っていた。
みんなが納得してくれて、遺影にはその写真が使われることになった。

立派に飾られた祭壇の中央に、わたしの大好きな祖父の笑顔が飾られた。
参列してくださった方々に「良い写真だね」と言われて、とても嬉しかった。
孫のわたしをかわいいって言ってもらえたとき、祖父もこんな気持ちだったのだろうか。

お別れの儀では、祖父の好きな物を一緒に入れていいと言われていたので、わたしは焼酎と、天国で待つ祖母が見ることのできなかった家族の話がしやすいようにと、数枚の写真を添えた。
焼酎は飲ませてあげることもできますよ、とのことだったので、徳利にうつしてもらって、口元へ運んで飲ませてあげた。
参列された方々にもどうぞと手渡し、みんなが祖父の口元へと運んでくれた。
親しかった方々や大好きなお花に囲まれて、想い想いの言葉を交わしながらみんなに焼酎を飲ませてもらえた祖父は、きっと天国で格別においしい焼酎を飲めたに違いない。
わたしの最後のじいちゃん孝行、喜んでもらえたかなぁ。

小さなわたしをだっこしたり、おんぶしてくれた祖父を、今度はわたしが大事に抱いて、一緒に過ごした家に連れて帰った。
大柄だったのに、わたしがひとりで抱けるくらいに小さくなっちゃったね。

祖父を抱いて、祖父が丁寧に手入れをしていた庭を見せてまわった。
造園業をしていたこともあり、実家の庭にはたくさんの樹々が生えている。
庭の手入れができる状態ではなかったはずなのに、最近手入れがされたばかりのようだった。
母に聞くと、ほんの数日前に手入れをしていたらしい。
危ないからやめて、と言ったがきかなかったと。
「もしかしたらこれが最後になるってわかってたのかもね」と言っていた。

祖父を部屋に連れ帰ったあと、今度はひとりで庭を歩いた。
祖父と自転車に乗る練習をした場所、一緒にいろんな作物を育てた畑、小さい頃のぼった樹、祖父が毎日座っていた場所から見える景色、綺麗に剪定された枝、祖父が大事にしたそれらをすべて写真に残した。

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葬儀に関するすべてが終わったあと、わたしは焼酎を買ってきて、祖父が座っていた場所に座り、祖父が見ていた景色を見ながらそれを飲んだ。
その途端、堰を切ったように涙が止まらなくなり、わたしは子供のように声をあげて泣いた。

わたしが泣いていたらきっと心配して天国にいけなくなる
最後にじいちゃんに見せる顔は笑顔がいい

そんな思いで必死に止めていた涙を止める理由はもう必要なかった。

庭を歩きながら気付いたことがもうひとつあった。
倉庫の中にしまってあった祖父の自転車がサビていた。

わたしは自転車に乗っている期間、小学1年生から高校3年生までの12年間、一度も自転車のタイヤの空気入れをしたことが無い。
だから空気の入れ方を知らない。
私の自転車は、毎日祖父が手入れや点検をしてくれていた。
空気が抜けていたら祖父がわたしが学校に行く前に空気を入れてくれていたし、磨いてくれていた。
パンクをしたときには数キロ先の自転車屋さんまで祖父が歩いて持っていき、修理をしてきてくれていた。
それらをわたしが気付く前に祖父が気付いてやってくれていたから、
わたしは毎日ピカピカの、整備された自転車に乗っていた。

あの頃はそれが普通だと思っていたけど、もちろんそれは普通のことではないし、わたしが祖父にひどいことを言っていたあの時も、祖父はわたしがケガをしないようにと気遣ってくれていたのだと今なら痛いほどよく分かる。

そんな風に手入れを怠らない祖父の自転車がサビていたということは、もうずいぶん前からそれを使用しなくなっていたということだろう。

祖父の移動が、大病を患ったときにもう危ないからと、バイクから自転車になっていたことは知っていた。
でもその自転車にさえ乗れなくなっていて、手段が徒歩に変わり、その徒歩ですらもうままならなくなっていたことを改めて痛感し、それに気付かないほど祖父を見ていなかった自分が情けなくて、涙が止まらなくなっていた。

たくさんの愛情を注いでもらっていたのに、わたしは何も返せなかった。

ごめんね、じいちゃん、ごめんね

泣き終わったころに空を見上げたら、雲1つない青空が広がっていた。
こんな空なら、迷わずまっすぐに祖母のもとへ行けたよね。

祖父はきっと、ずっと自分の面倒を見てくれた娘に迷惑をかけたくなかったのだろう。
だからあんなにもあっさりと逝ってしまったのだ。
そして久しぶりに奥さんに会うデートの日に、クリスマスイブを選んだんだ。
なんてオシャレで、かっこいい男性だろうか。
およそ40年ぶりのデートを楽しんでくれてるといいなぁと心から願う。

今後なにか祖父に話したいことがあるときには、この祖父が愛した庭の、祖父の定位置で焼酎を飲みながら話しかけてみようと思う。
こんな祖父の孫ではあるが、正直焼酎は苦手である。
好きになれるように、たくさん話しかけにこなくちゃね。

もしかしたら明日かもしれないし、長ければ数十年後かもしれない。
でも必ず、わたしはまた祖父に会える日がくる。

そのときには2人で焼酎を飲んで、おいしいって言えるようになっていたい。

わたしがそっちにいくまで、今まで一緒に過ごせなかった分、ばぁちゃんとの時間を楽しみながら、ゆっくりのんびりまっててね。

ありがとう、じいちゃん
あいしてるよ。

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