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判断の練習

判断するということは重要であり、必要なことだ。朝起きてから夜寝るまで、判断に次ぐ判断で生活が成り立っているように感じる。判断などせずに無意識に手足が動いているということも確かにあるだろう。しかしそれでうまくいくのはよそからの外乱、つまり余計な邪魔が入らない理想的な状況の時だけだ。大抵の場合は思ったより暑かったり寒かったり晴れたり曇ったり電話がかかってきたり、犬が吠えたりして新しい判断を強いられることが少なくない。
日々ネットに流れてくる情報を見るにしても、そこにある文章はすべて何かしら判断されたことが書かれている。良いとか悪いとか、美味しいとか残念だとか、得だとか損だとか、とにかくあらゆる方面に判断の元になる軸が張り巡らされていてどこかに線を引いて判断するのである。
こういったことを毎日繰り返しているということは相当な量の判断の練習をしているということに他ならないのではないか。そして継続は力である。毎日このような訓練をしているならば、じきに相当な「判断力」が身についてくるに違いない。
ところでひとくくりに判断と言っているが、判断には2つの側面、というか、目的があるように思う。一つは、自分が納得するための判断だ。目の前で起きていることを自分が受け入れるためにはそれを自分の中の合理的な場所に落とし込まなければならない。そのために判断が必要というわけだ。これは自分の中で閉じていることであり、あまり人に説明する必要もないことなので、どのような理由づけでも構わない。自分の理屈で良いわけだ。
もう一つは自分が行動するための判断だ。道を渡るときに左右から車が来ないかを見て判断したり、雨が降りそうだが、傘を持って行こうかどうしようかというような判断である。こちらはじぶんの外界との関係で判断するので、自分の中で閉じていない。自分の理屈ではなくて現実に即した自分の行動を決めるものである。同じ判断と言ってもだいぶニュアンスが異なるものだ。
前者は自分の土俵に世界を押し込んで自分の論理で説明をしようとする、自分の知識や経験だけがすべてのような、ざっくりといえば「いいわけ」だ。
後者は世界を受け止めて自分ができることを探そうとする。自分は知らないことがかなりあると認める。そしてそれを理解するために働きかける。こちらはざっくりといえば「冒険」だ。
日本語のSNSなどの内容が目につくのは日本語なので当然だが、どうも前者のような内容が多いような気がしてならない。判断とはそれでいいのだという空気ができてしまっているようにすら思えてくるのだ。それをあまり意識せずに毎日見て、同じような文章を書く練習をしているのだとしたら、ある意味自分の「いいわけ」を作る練習を日々重ねていることになる。
ここに思い出されるのはデンマークの留学時期に知ったヤンテの掟である。彼の国は個人主義の先進国として有名だがいつでも個人だけが人生に責任を負って生きるということだけではなくて、人生における幸福はお互いに尊重しあってよいコミュニティを築きその中で貢献しながら生きることだとも言っている。その象徴的な文章がヤンテの掟であり、10か条からなるそれらは一言で言えば「自分が特別な存在だと思ってはいけない」である。個人は尊重するが、特別扱いではないというわけだ。平等ということである。一方で仏教には凡夫の教えというのがある。だれもが迷いや煩悩を断ち切れない凡夫であるという。これもある意味平等である。自分だけの理屈を主張するということが他人への尊重を欠いたり煩悩に因るものであったら心して自制しなさいという。これが国によらず説かれていたということに気づくのである。
日々思い起こさねばならないことはここにあるような気がする。

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