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「育てる」と「作る」

人材育成という言葉がある。人間は社会的な動物であり、集団を作ってその中で役割を担うことでその集団が維持されてゆく。そのように集団の中の役割を担える人を「育てる」という言葉だ。育てるというのは育てられる対象(人)が中心にあって、その対象がうまく育つように環境を整えたり教育を施したりすることだ。そしてその対象(人)が育つ「ペース」が第一に重要である。
人づくりという言葉がある。先の人材育成という言葉と混用されている向きもあるようだが、人間社会の中で役割を担える人を「つくる」という言葉だ。つくるというのは道具を用意して材料を設計図通りに加工する、というイメージが有る。産業的、工業的な見方をすれば、目的に沿った働きを実現するための設計図があり、どのように材料を加工すればよいかが検討され、納期(期日)が決められ、お金が投入されて大きな仕組みが動く、という感じだ。ここでいう材料が「人」である。私が感じる違和感がここにある。
今や野菜が工場で生産される時代だ。つまり、(かなり)思ったように育てられるということだ。病気に強く生育期間が短くおいしい野菜の種が開発され、温度管理され定期的に決まった波長の光を浴びて最適な栄養素を適量与えられる工場を建設するわけである。育つ「ペース」さえある程度つくることができるようになっている。
人間のDNAも解析され、様々な技術の進歩でどんどん人間というものが解明されてきた。それだけ育てられる対象について研究され、「育てる」と「つくる」が近づいてきているのかもしれない。
では、その中で「幸福な人生」も研究されてしかるべきではないだろうか。「幸福な人生をつくる」産業である。いや、おそらくすでに研究されているだろう。しかし工業的な視点と対立する感情的な要素があるので、方向性がさまよっている感がある。教育産業がそうではないかと言われるかもしれないが、教育が誰かに設計された「幸福」に基づいているならば、人間を研究し尽くしたものとは言い難い。
人は思ったように育てることはできない。し、してはならないが、集団の役割を担う人にはなってもらわなくてはいけない。このとき自分のペースで育った人は集団を維持することができるが、設計図によって作られた人は集団を維持することはできない。なぜなら誰かの設計図には必ず将来の環境の変化が想定されていないからである。
育てるのは大変だ。手間もかかるし時間もかかる。しかし育てられた人が幸福になるならばその集団はきっと発展的に維持されるものになるに違いない。

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