自分の足で歩くという感覚
生活というのは忙しい。毎日のほとんどはルーティーンワークだ。だから、自分の時間というのがとても少ないように感じられる。自分が好きなことをしていられる時間というのはごくごく限られたところにしかない。しかも働き方が変わり、大雨やコロナ感染のような心配ごとが波打つようにやって来る。その度に色々なことに心配しながらやりくりしなければならない。仕事に追われ、時間に追われ、今日もまた1日が過ぎて行く・・・。と感じていた頃があった。
若くて体力気力にあふれているときは力まかせにどんどん自分の行動を広げていき、気がついてみると100%全開で、それでも体力がもっていれば平気だが、そのうち消耗してきて追いつかなくなり、上のような気持ちになっていったような気がする。今からすれば当然のことだった。もちろん、そのがむしゃらな行動が全てマイナスだったわけではない。学ぶことも多かったし、いろいろ貴重な機会を得ることもできた。元気なうちは何しろ楽しかった。
しかし、ひとつだけ当時に持てていたら良かっただろうと思うのは、自分と対話する時間だ。テレビやネットを見るのではなく、趣味に講じるのでもなく、友人知人たち家族と談笑するのでもなく、静かに自分の価値観やこれからの人生を瞑想するように聞く時間だ。誰にも何にも邪魔されない静かな時間を持てたら良かった。
このような時間を自分のために作ることは実は相当難しいことだと思う。なぜなら、そんなことより面白そうな番組やコンテンツが身の回りにはてんこ盛りだからだ。5分以上時間が空いたらスマホを見るだろう。何も得られるものがないと分かっているにもかかわらずただ手にしてしまう。楽器を演奏したり、庭に出て草むしりをしたり、ちょっと家の掃除をしてみたり、そんなことができればまだいい方だ。じぶんが行動することで自分の時間が作れるからだ。
この自分のための自分の時間を痛烈に感じたのがデンマーク滞在中のコロナロックダウンの時期だ。授業もほとんどなく(あってもオンラインで2時間くらい)、食事だけが時間通りに提供される生活で、あとはすべて自分の時間であった。ネットに浸って過ごすことは可能ではあった。しかし、いつもなら生活の忙しさに紛れて優先順位がどんどん下がる自分のテーマが否応なく最優先に上がってきていた。高齢者の尊厳ある生活。それを差し置いてほかに何をする理由もなかった。そこで最初にしたのは自分がどのように行動すべきかを常に考えることだった。何しろ時間を使うのは自分が行動するそこしかない。こんなに自分の行動をゼロから考えさせられたことはなかった。そしてこれはとても充実しているものだと発見したのだった。
デンマークでは数名の日本人学生とも一緒だった。そしてみんな概ね時間の空きの大きさに感動したり戸惑ったりしていると話してくれた。そして自分で決めて自分で使う自分の時間ということを楽しんだのだろうと思う。自分もまさにそうだった。それは決して時間に追われることのない、自分の人生を自分の足で歩く感じだった。
デンマークのフォルケホイスコーレは試験や成績のない、ある意味では自分探しをするための学校である。その基礎は自分で考え行動し責任を引き受けながら良い人生を考えることだろうと思う。そのための時間を与えてくれるのがこの学校の大きな意義なのだろう。平等とかデモクラシーとかデンマークで生活に根付いたそれらの文化はまず自分の人生を自分の足で歩くようになってから、ということかもしれない。
私はまず、この忙しさ、受動的な暇つぶしのような、自分を幸福に導いでくれそうにない習慣に目を向けて今一度、自分で決める時間を作っていかなければならない。