判断しないということ

これまでは判断しながら聞くことを常としていた。結論を得るためには速やかで正しい判断こそが大切だと思っていたからだ。時代もスピード感を求めていた。即断即決、リーダーシップを求め、常識的ながら革新的で凡庸ながら目新しい表現に酔っていたのかもしれない。

判断する、判断できると思うのは抗えないほど魅力的である。そして何かのはずみで自分の判断というものを(押し)通してしまった時、それは中毒性を帯びてくる。それは自分の判断が正しいと自分に刷り込む行為である。

判断しないというのは、そのまま受け止めるということだ。その難しさは、自分が判断中毒だと気づいたときに、わかる。

判断の基準がなんとも心もとないことに、気づく。自分だけの経験、価値観、知識。それに基づいて自分だけの価値観では理解できない他人を判断できないという、至極当然の事に気づくことを拒んでいた。これは本当に無意識のなせる業だ。無意識ゆえにコントロールし難い。私の場合は唯一コミュニケーションがそれに気づかせてくれた。自分の態度が鏡のように返ってくるのがコミュニケーションだ。こちらが判断して返せは同じようにこちらに返ってくる。押しつければ押し付けられる。カラ返事すればカラ返事される。それで嫌な思いをするのが面倒になるとコミュニケーションそのものをしなくなる。
だから、うまいコミュニケーションができるようになるには特別なスキルか知識が必要なのではないかと思っていた。ところがどうもそうではない。それが
判断しないということだった。そのまま受け止めればよかったのだ。それが相手を尊重することだった。そして自分も何も構えず力を抜いていられる方法だった。そのことはデンマークで何ヶ月もかけて理解できた。向こうではそれができるような気がしていた。
しかし日本に帰って今、それは難しいと感じる。理由は多々あり書ききれないが、何にせよそれをしないと私は望む老後の生活を送れないということを知ってしまった。だからこれからそれを実践してゆく。それが今の私にできることだ。

いいなと思ったら応援しよう!