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情報量が減ったとき

人は目から80%の情報量を得ているという。このような話は結構いろいろなところで見聞きする。といっても、実は膨大な情報量が脳に流れ込んできたとしても人間の脳が意識的に処理できる情報量はせいぜいその100万分の1にすぎないという研究結果もあるという。となると意識しないで処理されている情報があるのではないか、それが無意識の研究の動機になっているということだ。まあ最初に述べた80%という数字は、人間の持っている情報センサーの量から勘案すると、視覚からの情報量は全体の80%程度であるということのようだ。
したがって、人間がどのような情報を主に処理して行動しているのかということはよくわからないが、確実に言えることは、情報センサーの機能がある程度衰えてくれば、脳が処理できる情報量を下回るようになれば、明らかに判断や行動に影響してくるということだ。もし溢れた情報が無意識という部分で処理されていたとすれば、それも影響を受けるはずだ。それでどうなるのかということも気になるが、私は「それは自覚できるのか」という方に興味がある。おそらく「年をとったな」というひとことで片付けられるようなある種「諦め」とか「絶望」に近い感覚かもしれないと思っている。
さて、私は3年前にデンマークに10ヶ月ほど滞在してフォルケホイスコーレという成人向け学校で異文化と異言語に浸りながら「高齢者の尊厳ある生活」について考える機会を得た。デンマークの高齢者が皆尊厳を持って幸福に生きていたのかどうか、そこまではわからない。しかし自分の意思でより暮らしやすい家に引っ越して生活を謳歌したり、施設に入ってその中のコミュニティを楽しんだりする人を見たし、一方で孤独な老人が家に引きこもっている社会問題があるということも知った。個人個人は他の国であってもそれぞれ異なる考えを持ち、諦めずに前を向き続ける人、失意と諦めで立ち止まる人さまざまなのだろう。ただ3年前に私がそのようなことを考えられるような環境に居られたということがとても幸運であったと思う。
私はいわゆる「年のせい」で情報量と処理能力が減りつつあるなか、フォルケホイスコーレで十分な時間を使って自分のペースでそれを処理できたのではなかったろうか。情報化社会の過剰な情報と若い頃ならではの力任せの処理能力だけではもしかすると自分の処理能力を自覚するような余裕が持てなかったかもしれない。「年のおかげで」処理できる情報量が減ったことで、自分を観察する自分が生まれ(?育ち?)その結果自分のすべきことを考えようという「意識」がはっきりとしてきたのかもしれない。
これも一つ、フォルケホイスコーレの大きな効用と言えるような気がする。

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