寄り添う
寄り添うという言葉はよく聞かれる言葉だ。特に最近は困っている人に寄り添う、介護する人が高齢者に寄り添って、など温かいイメージを思い浮かべる言葉だ。私も25年ほど障害者へのパソコンボランティア活動を通して、この「寄り添う」という言葉を頻繁に使ってきた。寄り添うというのは押すのでも引くのでもなく相手のペースに自分を合わせて受け止めながらそこにいて必要なサポートを行う、というものだ。あまりに響きの良い言葉であるために、私はこの、寄り添うということがサポートする側の言葉であるということを忘れていたような気がする。
何度も書いているがデンマークのフォルケホイスコーレで10ヶ月滞在した経験を帰国後こうやってはんすうして日本での生活を別の角度から分析していると、この非常に耳あたりの良い言葉に少し不安が湧いてくる。それは、「自分が寄り添われる立場だったら」という視点が生まれたことだ。デンマークでは平等、対等が基本だ。お客様は神様ではない。サポートする人もされる人も対等だ。平等だ。それはどういうことかというと、サポートする人もされる人もそれぞれが尊重されて幸福でなければならないということだ。
寄り添うというのは、うっかりするとサポートする側がされる側に仕えるような意味合いになってしまう。これは平等ではない。上下関係のない寄り添いというのはどのようなものか。これはいまだに想像するのが難しい。
私の滞在したデンマークの自治体の高齢者尊厳ポリシーによれば、高齢者自身が自己決定しながらアクティブに自分の生活を営むことを前提として、しかし病気や衰えのために日常生活に支障がある場合にはプライバシーに最大限配慮しながら介入する、とある。その時のケースワーカーとの信頼関係は時間をかけて1対1で構築してゆくものらしい。もちろん介助者の周りにはさまざまな専門家がチームになってサポートしているわけだが。この辺は何か日本的な人格を信頼するような関係のように見えて興味深い。
一方で、日本ではケアマネージャーがこのような立場だ。1対1で介護計画のサポートをするが基本的には介護保険サービスの範囲内での手続きや各サービスの調整が主な仕事になっているように見える。生活全般の相談に応じてくれるが、目標は自立した生活を目指し、できないところは介護サービスで補うという考えのようだ。寄り添いながら自立した生活を目指すというストーリーになっている。
言葉で説明するのはまだ難しいが、デンマークでは初めから個人は自立している。自分の生活は自分で決める。その中でできなくなったことがあれば、(気持ち的には嫌であろうが)介護サポートを受けながらあくまで自分の生活を送るということだ。この場合は介護する側される側が対等であるということが比較的容易に想像できる。これに対して日本ではサポートを受けた時点で自立できなくなったと捉える。だから自立した状態に戻そうと介護サービスが入る。この場合は介護される側は既に尊厳を失った状態になっているのではないか。平等に尊厳をもった尊重し合える関係はうまく作れるのだろうか。
自分が寄り添われる立場になったときに尊厳を失った状態になることを、いま一番恐れているのだ。