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それでも正解を求め続ける

昨日から3日間、日本版オンラインデモクラシーフェスティバルが始まった。いろいろな人と自由に意見を交わすことは純粋にたのしい。まあそれが目的のフェスティバルであるから参加者もみなその気で発言する。うまく受け止めて内容を発展させるように対話を充実させる。それが理想だ。しかもそれがフェスティバル=お祭りなのだから、大いに盛り上がることが最終形態になるのだろうと思う。
しかし楽しいとはいえ、私にはなかなかの試練である。自分の発言の機会が来ると思わずテーマに沿った持論を展開するだけになりがちだ。具体的に出された意見に対して発展させるということがなかなかできない。あたかも目の前のまな板の上に材料が乗っていてみなで料理しようという時に、とうとうと栄養学を述べ始めるようなものだ。
デンマークから帰国して2年以上、対話についても考えてきたが、上手に対話するというのは「受け止めて」「プライバシーを尊重し」「一般論よりも自分の言葉を話す」のが良いのではないかと思っているが、やはり自分自身が実践できていないと反省しなければならない。どうも「受け流して」「相手を見ずに」「一般論を話す」傾向があるように感じるからだ。それは自分の受けた教育が問題だったと思わざるを得ないものの、しかしすでに教化された脳みそはどうすれば良いのだろうか。自分にできることを探してゆかねばならない。
そのヒントはやはりデンマークにあると思う。個人主義、つまり個人を一人ひとり違う人格(分かり合えない部分が結構ある)と捉えて信頼関係を築く社会だからだ。一人ひとり違っているということは私のような人間も含まれるはずである。希望はある。日本のような序列社会ではないフラットな関係性のなかで敬語も使わずにどうやって信頼関係を作るのだろうか。そもそも信頼関係という言葉の意味が少し違うのではないか。おそらくそれは、プライバシーを尊重した距離感を保持した関係性ではないかと思う。全人格的な信頼感をあらゆる個性の人と築くことはできない。ならば、違うところはお互い見ない、気にしない、指摘しない、その距離感を保った上で両者に必要な話題のみに焦点を当てて話をする、そういうことではないかと思う。そのキーポイントとなるのが、解決するための方法を安心して話せる空気を作る技術だ。
固まってしまった脳みそでできることはあまりないかもしれないが、せめてこの安心して話ができる空気を作ることから始めてみたい、そのくらいしかできないかもしれない、そんなふうに思えてくるのである。

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