そのまま受け止めることの難しさ
私はデンマークから帰国して日本の文化に戻る過程で何度もこの「そのまま、判断せずに受け止める」ことが重要だと書いてきた。日本の暮らしに体も心も戻るに連れてこのことがどんどん自分の中にクローズアップされてくるのを感じる。それほど日々の生活の中ではあらゆるものを「判断して受け止め」ていると気づくからだ。
デンマークにいるときはそれこそ言葉が不自由だったので入ってくる情報量が圧倒的に少なかった。その特殊な環境だったからこそ判断せずにいる時間が多く取れたのだろうと思う。おそらくデンマーク人は同じ学校の中に暮らしていてもきっと私よりたくさんのことを判断しながら暮らしていたのだろう。だから私が感じているのは異文化の中で学んだものではなく、情報量の少ない生活の中で得たものだったのかもしれない。
情報が少ないと判断ができない。そこで大抵私は戸惑う。どうしていいかわからないからだ。それは別の言い方をすると、それに対して何かしなければならないが、その情報が自分の外部にないということだ。デンマークでは強制的にそのような状況に置かれたので、何もせずに放っておくしかなかった。しかしだんだん自分にできることを考えるようになった。というより、それしか行動を起こす方法がなかったのだ。
外部の情報に頼れないなら、自分の内部をさがすほかない。自分の置かれた状況を観察し、自分の体力や経験を総動員して自分のすべきことを考える。恐る恐る提案してみる。だいたいの場合OK!と言われる。この体験は今思えば強烈なものだった。自分の内側から行動を起こすという体験だったからだ。自分の外部に情報が溢れている場合、それに沿って判断し、行動するのが習慣だ。しかしそれはどうも本当に内部から起こした行動ではないようだ。自分が判断したから自分の行動だと思っていたが、実は外部の情報に任せた外発的な行動だったのではないかと思っている。
日本では否応なく情報の渦の中に漂うような生活になる。その中で自分が判断させられていることがいかに多いことか。判断しなくてもいいことが実はたくさんあるのではないか。もっと自分を見て自分が考えた行動を起こせるチャンスがたくさんあるのではないか。最近になってこんなことを思い始めている。だから情報の渦から解放される時間を作るように努力し始めている。
判断しないということは何も考えないということではない。外部に溢れる情報によって判断させられないという意味だ。自分で自分を観察していくということだ。一切の情報をシャットアウトすることはできないので、意識的に少し遠ざけるようなことで丁度良いのかも知れない。情報が溢れる生活の中で情報に溺れていたのかも知れない。長年続けてきた生活習慣である。容易でないが意識して続けて行きたいと思う。
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