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他人は変わらない

厳しい状況に置かれた時、しばしば聞く言葉の中に「気の持ちようで変わる」というのがある。例えば、今の不幸は永遠には続かない、であるとか、これしかないからまだこれだけあると考えるとか、である。病は気からともいう。気の持ちよう、つまり自分の物事に対する考え方は比較的コントロールできるし、それによって物事から受ける感情も変化させることができるという、これは相当な智慧である。
一方で、自分が望むように他人を変えることは平常時はある一つを除いてほぼ不可能であると思う。だから他人を変えようと思ったらその人にそれを気づかせて自分から変えるように仕向けるのだという意見もあるかもしれない。しかしその方法は大抵の場合、痛い目に合わせてそれに懲りてしなくなるという結局は非常事態を作るような非平和的な行動へつながる。
だからこそ一人ひとりが自分の意思として考え方を見直し変化し続けられるようにならねばならない。一人ひとりが自分の幸福を追求しそのためには社会が幸福にならねばならないことを理解しなければならない。先ほど一つを除いて不可能といったその一つとは、教育である。長い年月をかけて平常時に人を国家の望むような人間に育てる強力な手法である。
私の、いや私たちの発言はポジティブなものであってもネガティブなものであってもすべて過去に受けてきた教育に潜在的に縛られている。そういうものなのだ。2次元の中に住む住人には3次元が想像できないという例えがしっくりくるほどに無意識に、自覚もされずに縛られている。
したがって、他人も自分も過去に教育から受けた経験や知識や習慣により個別に縛られていてそれを抜け出すようなことはおそらくほとんどできない。意識されないからだ。実はそれを多様性と呼ぶのではないか。その強力な縛りを平等にみな持っているということなのではないか。
とすれば、想像もできない他人の縛りを変えることは平常時にはまず無理で、できることとすれば、自分の縛りを何か大きく刺激して少しだけ変形させるくらいだろう。自分の縛りもよく見えないが、自分に関してならいろいろ試すことができるというわけだ。
このようなことを考えるようになったのも、3年前にデンマークのフォルケホイスコーレに留学し、非常に大きな刺激を受けて、自分の縛りに少しだけ気づいたからである。自分がいかに強力に縛られているか、しかしそれが何であるかよく見えないということ。それでも刺激を加えてその存在だけはわかった、そんな感じだ。
他人は変わらない。自分も普通では変われない。無意識に縛られているから。そこに刺激を与える経験が重要という意味がよくわかる。自分が想像できない場所に飛び込む経験だ。

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